国郡を保つべき威がある☆ | げむおた街道をゆく

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天文18年(1549年)2月下旬より、

備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、

同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。

曹洞家の禅宗である。

備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、

関東上下の会下僧3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、

信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
 

右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。

これも同じく参詣なさり、

御供には家臣の柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、

佐久間次右衛門、山田弥右衛門、長谷川宗兵衛らがいた。

 

また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり、

長柄の刀と脇差をみご縄に巻いて差し、

袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、

仏前へ投げ掛けて帰りなさった。

勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、

「これはまた例のうつけ者よ。」

と言って、とりどりに批判した。

 

しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、
「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある。」

と、相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、

柴田、佐久間以下歴々の臣下を付け置きなさった。

また信長は、自ら改名して上総介と名乗りなさった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 第六天魔王・織田信長、目次

 

 

 

 

 

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