朝鮮陣が進行している最中、
国内では、摂津、河内で堤防が決壊し田畑が水没、
民家や牛馬にも大きな被害が出た事があった。
この災害に秀吉は、毛利輝元に普請を命じ、
毛利家は3月から8月の半ばまでかけて、
これを修復し、さらに摂河の地に多くの新しい橋を架けた。
この時、秀吉は輝元の労をねぎらう為、茶の湯を催そうと、
平潟の筋向い、大塚の土手に御茶屋を建て、
輝元の元へこれに招待する旨の使者を遣わした。
この時、使者は輝元に、
「殿下はこのようにおっしゃいました。
『右馬頭(輝元)は、わしに進物を用意しようとするであろうが、
それは全く無用である。』と。
殿下は、輝元様からの進物ならば、どんなものでも喜ぶでしょうが、
それは輝元様の殿下への忠誠を、よくご存知だからなのです。
殿下が只今差している太刀と脇差は、それぞれ、
先に輝元様が進上された荒実国行の太刀と清水藤四郎の脇差です。
殿下はこの両腰を肌身離さず差されていますが、
これにはこのような理由があります。
殿下はある時、夢をご覧になられました。
敵と戦っていて、これを太刀で斬ろうとしても斬れず、
脇差で突こうとしても突き立てる事ができない。
それで甚だ困る。そのような夢であったそうです。
ところがこの夢の中で、荒実国行の刀を使うと、
たちどころに敵を両断し、また清水藤四郎の脇差を使えば、
突き通せぬ事は無かったと言います。
このような事があったため、殿下はこの両刀を常に差すようになられました。
そしてこの事に付いて殿下は、
『輝元の進上した剣だけが通用したのは、輝元が心に偽り無く、
わしを大切にしているためであろう。』
と、仰いました。このように心安く、かつ信頼されているので、
秀吉公は輝元様からの進物など、
もはや必要無いと言われたのです。」
このように言われたので、この時、輝元は、
秀吉への進物を差し上げる事はなかったそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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