喪が明けないうちに☆ | げむおた街道をゆく

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豊臣秀次は後年、殺生関白と呼ばれたが、

それは太田牛一の、
『太閤さま軍記のうち』

に秀次の様々な蛮行が伝えられているからである。

そのうちのひとつに、こういう話がある。

「正親町上皇が崩御あそばされ、

天下の関白たるもの喪に服さねばならないのに、

関白秀次は鹿狩りを楽しんだ。

これを非難してこんな落書が書かれた。
『院の御所にたむけのための狩なればこれをせつせう関白といふ』」

上皇が崩御した文禄二年一月ごろに、

秀次が喪が明けていないにも関わらず、

不謹慎にも鹿狩りをしたとされている。

 

しかしこの史料が伝える他の蛮行は嘘臭い話が多く、

鹿狩りの話も鵜呑みにできないと言われている。

また秀次と交流のあった山科言経は、

秀次が鹿狩りをしたのは喪が明けた文禄三年のことだと日記に書いているらしい。

果たして本当に秀次は殺生をしたのか?

ところで京都干菜山の寺の縁起にこういう伝えがある。

「文禄二年二月、秀吉公が鷹狩りのあとにお立ち寄りになられたので、

干菜を差し上げた。

秀吉公は大変お気にめしたようで、
その山を干菜山と命名なさった。」

もしこの伝えが事実だとしたら、
実際に喪が明けないうちに殺生をしていたのは・・・。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 太閤記・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!