朝鮮の役のこと。
朝鮮の王城に集まる日本勢10万あまりは、
戦うこと無く徒に日を送っていたが、
太閤秀吉より使者がしきりに来て、
『唐人(明)が軍勢を出してきた事こそ幸いである。急ぎ合戦を遂げるべし』
と仰せ遣わされた。
都にあった三奉行並びに諸大将は、合戦すべき謀を日々に相談したが、
明の朝鮮派遣軍の大将である李如松は、
20万の軍勢で開城を固く守っていたため、
たやすく攻め寄せることも出来なかった。
この間、諸将は戦をせずに都に久しく逗留していたが、
秀吉より
「朝鮮に渡った日本人の数と同じほど敵を殺し、その耳を切って送り届けよ。」
との命令があった。これに諸大将はそれぞれ家臣を出し、
都より1、2里、あるいは3,4里も敵を求めて、
馳せ行き分捕りをさせ、彼らが打ちとってきた切り耳を日本に献上した。
豊臣秀吉はこの耳を集めて京都に上らせ、大仏の前に埋めて耳塚を築かせた。
古のもろこしにも切り耳を献上することがあった。
これは敵を誅した印として左の耳を切ったものである。
日本の上代にもこの法を用いたのか、神功皇后が新羅を征伐されて帰陣の時、
この新羅の香椎の里でとどまり、耳塚を築かせた。
またもろこしでは、敵の死骸を多く積んで、
その上に土を高く盛ったものを京観と名付けた。
京観とは大いに示すという意味である。
敵に打ち勝ってその印を残し、
自分の子孫が先祖の武功を忘れないように、大いに示すのだという。
秀吉が耳を献上させ耳塚を築かせたのは、これに似ているようだが、
その兵を用いられる道は異なっている。
悪逆をなし国を妨げ民を害する者を滅ぼして、
それについて永く子孫に武を占めるのが、古の道である。
また『武』という文字は『戈を止める』と書くのであるから、
武を用いて敵を討つのは、乱を鎮め民を安んじ、
戈を止めるためなのである。
人の国をむさぼって、人を多く殺すことを武とは言わない。
天道は生ずるを好み、殺すことを憎み、善に福し、悪に禍する。
善悪の報應は必然の理である。疑うべきではない。
ここを以って、古より和漢とも、人を多く殺す将は、
必ずその家は滅び子孫は長く続かない。
天道恐るべしである。
戦に臨んで人を殺すのは、止むを得ずすることなのだ。
人を殺すのを好むのではない。
人を多く殺さずに、敵を屈服させるのを良将と呼ぶ。
朝鮮の松雲が四溟堂集に、こう書いた。
『秀吉は人を殺すことを好み、見聞きする者これを恐れた。
家康は人を殺すことを好まず、人皆これに服した。
そして秀頼の存亡は未だ知れない。』
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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