命より水を☆ | げむおた街道をゆく

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摂津国・鳴尾村は、三年にわたる旱魃に苦しんでいた。
 

そしてついに、隣村の瓦林村が新川から水を引き込んでいる枝川から、
空の四斗樽の底を抜いて、つなぎ合わせて作ったといを使って、

その水を密かに、自分達の田に引き込んだ。

水盗みである。

瓦林村も水に余裕があったわけではない。

事はたちまち発覚し、鳴尾村と瓦林村との騒乱に発展した。

この騒ぎに大阪城より奉行が派遣され、

騒ぎの原因は、鳴尾村による水盗みである事が確認された。
 

水盗みは当然、重罪であった。

奉行たちからこの話を聞いた豊臣秀吉は、

鳴尾村の責任者たちに、このように言った。

「お前達、水がほしいか、命がほしいか、どちらかを選ばせてやろう。」

村のものたちはこの時既に、覚悟を決めていた。

「命をいただいても、水がなければ我々はどのみち生きてはいけません。
水さえあればこの村は生きながらえる事ができます。
どうか命より水を下さい。」

それを聞いた秀吉は、

「ならば鳴尾村の者達が引き入れた水はそのままにしておこう。
ただし、この水盗みにかかわった者は、全員磔にせよ。」
そう命じた。

奉行は鳴尾村の者たちに、

水引のために使った空樽の数だけ磔にする、そう言った。
村の者たちは、樽の数は二十五だと答えた。
水引のといは、100メートル以上もあった。それに使った樽が、二十五で足りるわけがない。
どう少なく数えても、百を下回ることはなかったであろう。
だが、奉行はそれを聞き届けた。

「二十五個だな。では、二十五人を磔とする。」

「その前に。」

村の者たちは言った、

「我々が処刑されれば必ず水がいただけるという、
起請文を下さい。」

奉行の名による起請文は、村人の代表二十五人の処刑の日、鳴尾村に渡された。
これ以後、鳴尾村では旱魃に悩む事は無くなったと言う。

現在、鳴尾村の場所にある、西宮の北郷公園には、この時死んだ二十五人の村人を称えた
義民碑が建立されている。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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