この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は、豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。
12月28日、近江中納言・豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。
秀次は、この日参内し、
日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、
1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た。
「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。
それなのに義光が政宗の跡に立つのは本意に非ずと、
出羽守は頻りに嘆いています。」
秀吉はこれを聞くと、
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。
山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、
山形を先にするのが道理である。」
こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し、
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。
もし会津に一乱有れば、必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、
氏郷はこれを丁重に送り返した。
さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、
その甲斐もなく義光が行列の2番に立つことになった。
政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。
蒲生氏郷と伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、
秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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