天正13年(1585)、
羽柴秀吉の紀州征伐において最大の激戦となり、
日本三大水攻めの一つともされる、太田城攻防戦。
秀吉軍は紀の川の水をせき止め、得意の水攻めを行ったが、
一揆軍は堤防を破壊し、宇喜多秀家の軍勢を、
多く溺死させるなど、頑強に抵抗した。
しかし、一揆軍の劣勢は変わらず、蜂須賀正勝、前野長康の説得により、
終に降伏することとなった。
この時、蜂須賀・前野からはこのような条件が出された。
「最前に我々は51人を討たれた。その代わりに、
誰でも良いのでそちらからも51人を討って、首を提出してほしい。」
そこで一揆方は、
元来は知らぬ者達(おそらく流れ者の傭兵などだろう)を51人討ち、
その首を提出して、こうして終に和談が成ったのである。
この時、討たれた51人の首塚が、
吉田村の西北に一ヶ所、南に二ヶ所、計三ヶ所作られた。
一つの首塚に首が一七埋まっているため、十七塚と呼ばれている。
太田城水攻め講和の時の、犠牲者について伝わることである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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