天正10年(1582)11月、
柴田勝家は羽柴秀吉のもとに前田利家、金森近長、不破勝光を派遣。
秀吉は彼らを大いに歓待、そして返礼として、
勝家の居城・越前北之庄に実弟、羽柴秀長を派遣するとした。
秀長出立の際、秀吉はこう命じた。
「我らによる前田たちへの歓待から、越前に置いてお前も、
下にも置かぬもてなしを受けるであろう。
秀長、お前は勝家が許す限り、幾日でも北之庄に逗留せよ。
北国では既に雪が降り始めている。
白山の雪はどれほど麓に降りてきているか、
越中の立山、木ノ芽峠、板取山、中の河内、雛ヶ岳、
これらの山々の雪もどれほど下まで降りてきているか、
この情報を必ずお前の自筆にて、わしの元に早飛脚で知らせよ。
そして里山にまで雪が降り始めれば、
その状況を確認した上で飛脚を出し、
さらに里山に雪が積もるほどになれば、
勝家に対し『そろそろ帰国したいので、お暇を下されますよう。』
と申し上げろ。
『里山にまで雪が積もり始めたようです、
これは暇乞いの良い機会だと思いました。
御誓紙などの交換も既に終わりましたし、
どうかお暇を下されますよう。』
このように言えば、勝家も帰国を許すであろう。」
賤ヶ岳が間近に迫ったこの時期、
秀吉は、弟秀長を「敵地」に送ってまで、
精度の高い降雪情報を求めていた、
という事を知ることの出来る逸話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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