秀吉が、別所長治の三木城攻めの際のこと。
帝釈山に明要寺という寺があった。
この寺は、干し殺し真っ只中の秀吉軍をかいくぐり、
なんとか別所へ食料を運ぼうと頑張った、
毛利さんところの補給経路であった。
秀吉は、この補給経路を絶つために、
この寺を焼き討ちにし、
多くの武装した僧侶は逃げ出し、谷に落ちて死んでいった。
この寺には多くの侍童と稚児がいたのだが、
これらはいのちからがら山へ逃げた。
しかし、秀吉の追手は執拗に追いかけてくる。
とうとう追っ手に捕まり、ことごとく切り殺されてしまった。
哀れに思った村人等によって稚児らの亡骸をこの山頂に葬って、
墓に供える花を手折った東の峰を、花折山と呼び、
この山を、稚子ヶ墓山と呼ぶようになったといわれている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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