慶長八年ごろのこと。
林羅山や遠藤宗務、松永貞徳といった人々が、
それぞれの研究している、
「四書新注」「太平記」「徒然草」などの、
一般の人々への公開講義を行う事を企画した。
人々の間に、学問を広める事を目的としたものである。
ところがこれに、儒学を家学とする清原家などの、
京の伝統的な学派が異議を唱えた。
そして彼らはこれを禁止させるため、
家康の元に、今川氏真を派遣した。
氏真は言う。
「学問とは、代々それを受け継いだ師が、
その伝統の秘伝を含め弟子に教え伝えることで始めて成就するものです。
それを公開し、誰にでも学べるようにするなどと言う事は、
学問そのものを破壊してしまいます。」
家康は、こう答えた。
「師につかなければ、学べないようなものは、学問ではない。
芸だ。
学問とは、何から学ぼうが、学ぶ者の努力次第で、
天下万民、誰でも会得できるものでなければならない。」
こうして、公開講座は無事開かれた。
さらに、この講義内容は出版され、
日本全国に知的な興奮を巻き起こした。
一部の人々にのみ伝わっていた「徒然草」が、
日本人に「再発見」されたのも、この時である。
学問の世界が、
中世から近世的なものへと切り替わった瞬間とも言われる、有名なお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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