三成の奉行に、平塚越中守という者がいた。
世に知られた武士であったので、彼が浪人していた時、
徳川家康も仕官を誘ったが、
「家康公は、ケチなので嫌でござる。」
と言い、気前の良い石田三成の元に使えた。
やがて関ヶ原が起こり、平塚は落ちのびる最中生け捕りにされた。
かつての事を覚えていた家康は、引き出された平塚に、
「わしの誘いを断り、三成に使え、この様か。」
と嫌味を言う。
それに平塚は、
「何を言うか!
徳川殿とてかつては今川に人質にされ、
戸田にさらわれ、織田に売られたような身であったではないか!」
と家康を散々に罵り、
「さあ、早く首をはねよ!」
と啖呵をきった。
それを聞いて家康は、にやりと笑い。
「さても憎い奴だ。
お前のような奴に一瞬しか苦しまない斬首はもったいない。
生かして世の苦しみを味あわせよ。」
といい、縄を解き召し放してしまった。
左右の者たちが、
「何故あのような無礼なものを! これでは処罰になりませぬ!」
と抗議すると、
家康は、
「あ奴は見所のある奴だが、苦労が足りぬ。
苦労して人を磨けば、わしの息子達の家臣にしたいほどの、良い武士になるであろう。
そう見込んだから、命を助けたのだ。」
といった。
この平塚越中守の名が、
紀伊家初代・徳川頼宣の家臣の中に現れるのは、この暫く後の話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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