徳川家康が、将軍職を秀忠にゆずり、
自らは隠居し大御所となった頃のことである。
家康の元に秀忠より、本多正信が使者として使わされた。
家康は正信とよもやまの話をしているうち、
同年代の正信を見てふと、
こんな事を言った。
「お前も知っているように、わしらの若い自分は乱世であって、
学問などをする余裕はまるで無かったものだ。
そのためわしも無学文盲のまま、今まで齢をとってしまったよ。
そんな中でわしは、『老子』にある、
『足ることを知りて足る者は、常に足る。』
と言う言葉と、
世間でいう、
『仇を報ずるに、恩を持ってす。』
という、この二つの言葉を大切だと思い、
若い頃から常に忘れないよう、肝に銘じてきたものだ…。」
と、家康、ふと気がついて、
「あ、いやいや、使者だからと言ってこんな話を、
将軍(秀忠)に伝えることはないぞ?
将軍はわしなどとは違い、学問もあるのだから、
こんな言葉よりもずっと良いことを、
様々に知っているだろう。
これは将軍に言っているのではない。
正信、お主に言い聞かせておるのだ。」
どうも家康、学問的な裏打ちのない自分の座右の銘を、
学問のある人間に知られるのが、
ちょっと恥ずかしかったらしい。
「良いな? これはお前への言葉であるぞ!」
「ははっ! よくわかっております!」
と、本多正信、江戸に戻って、
「…かように大御所は。おっしゃっておられました。」
委細詳細に報告した。
当然のように。
父を尊敬する秀忠である。
彼はすぐさまその言葉を記帳し床の間に貼り、
あまつさえ金地院崇伝に頼んで、それを清書させ掛け軸とした。
もはや江戸において公然と宣伝しているようなものである。
さらに、この時、秀忠が記帳したものの方は、
旗本の内田平右衛門に与えられたが、
のち、家光はそれを知り内田の子息よりこれを取り寄せさせた。
そして、家光は、これと接するときは必ず、裃姿の正装をしたという。
家康の座右の銘は、まさしく徳川幕府の金言となったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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