慶長十七年七月十三日、
彦坂九郎兵衛の申す所によると、
一昨夜、飯田伝吉が、朝比奈甚太郎、松野勘介と駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。
これは甚太郎、勘介が、伝吉に対し悪口を吐き、
剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。
その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、
その場において松野勘介とその郎党を殺し、
朝比奈甚太郎は二、三箇所の疵によって倒れ臥した。
伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると、
「飯田は手柄を顕した。」
と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては、
「悪口の罪軽からず、殺害されるべし。」
と仰せになった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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