大坂冬の陣の最中、千賀孫兵衛より、
「穢多村の葦島に敵が重なっているようで、
ひたすらに鉄砲を打ち出しています。
早々に御攻めあって然るべし。」
と報告があった。
これによって大御所(徳川家康)は、
明(十一月)二十八日に御巡見あるべしとして、
本多上野介(正純)、菅沼左近(定芳)、山岡主計(景以)、
その外、船奉行衆に仰せ付けられた。
実は真田幸村(信繁)は、予てよりこの葦島に足軽を出し、
折々鉄砲を打たせれば、きっと両御所(家康・秀忠)の御巡見があるだろうと謀り、
もし御出あらばその時、鉄砲の手利きの者を以て打ち奉らんと思い、
御本陣の辺りに間者を置いて両御所の様子を探らせていたのであるが、
この者が明日、大御所が福島、新家辺りまで御巡見されると聞き、
走り帰って、その旨を告げた。
そこで真田は翌二十八日、鉄砲の上手百人、
小銃の上手五十人を選んで小舟に乗せ、葦間葦間に深く隠し、
大御所の御船を今や遅しと待ち懸けた。
一方大御所は、そろそろ御出あるべしと御供の面々、
各奉行が用意をして待っていた所に、本多上野介が南光坊(天海)を伴って御前に出て、
今日は不吉の由を言上した。
家康公は、これを聞き召されて、
「然らば止めるべし。然れども諸軍勢はこの急な中止を疑うのではないか。」
と仰せになった。
正純は思い廻らせ、
「明二十九日に勅使が下向されることになり、
このため巡見は御延引となった、
と触れるべきでしょう。」
と申し上げた。
そして正純を以て、葦島の巡見を仰せ付けられた。
これによって、真田の謀は空しくなったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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