関が原の合戦が終わってしばらくした頃、
前田利長家中において、信長の時代より活躍した長老というべき人々、
高山右近、長九郎左衛門、山崎長門守、内藤徳庵の四人が雑談をしていた。
この時、こんな話題が出た。
家康公が、関ヶ原で勝利され大坂に戻ってきたとき、
前田利長様は、家康公にこう申し上げた。
「秀頼公は、大坂から遠国へと移し、大坂城は、家康公が接収なさるべきです。」
この言葉に、家康公は、直ぐにこう察せられた。
『なるほど。これは肥前守(利長)と仲の良い大名たちが内々に談合し、
私が秀頼公をどのように処遇するか、それを聴こうとしているのだな。』
そして、こう答えた。
「今回のことはすべて治部少輔の仕業であり、
ご幼少である秀頼公には、何の関係もないことです。
それ故に秀頼公には、このまま、別状なく今まで通りに大坂城にあって頂きましょう。」
後で分かったことだが、利長様の問いは家康公が察せられたとおり、
大名衆が談合して、
家康公の口ぶりを見たいがために行ったことであったそうだ。
それらをとっさに悟った家康公は分別が厚く、
大くくりに時節をご覧になることが実に上手な人である。
彼らはこのように感嘆した、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!