江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、
慶長五年、関ヶ原合戦の後に、
上方衆では藤堂高虎、関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、
江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。
家康公は、これを聞き召され、
「各々大坂に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」
と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、
東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、
その他の衆、
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、
東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、
下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。
この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、
屋敷拝領の諸侯よりの願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、
地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、底も深くなったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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