天正5年丁丑、家康公36の御歳8月、勝頼(武田勝頼)は、
2万ばかりの人数で横須賀南とかりの尾さきまで働き、浜辺に陣取った。
家康公御父子ともに横須賀の城より4町ばかり北の丸山に御旗を立て、
諸勢は浜辺へ押し出して備えた。
敵との間は3町ばかり隔てて、
その中には入り江があったので互いに鉄砲を撃ち合うばかりであった。
信康は鈴木長兵衛という者1人を召し連れ給いて、
勝頼の旗の立つ所から2町ばかり近くに乗りよせ物見をなさり、
家康公へ御合戦あって御もっともと仰せ上げられた。
家康公宣うには、
「敵は大軍で味方は小勢であるのに、
切所をも構えず変わる手段もなくして、
大敵と掛け合いの戦をしても勝利はない。」
として、御合戦無し。
各々切れ者の衆が申されるには、
「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に成らせ給う。」
と感じ申したのであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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