徳川家康の馬印といえば有名な金の開扇であるが、
家康の馬印が扇となったのには、こんな理由があったそうだ。
永禄8年(1565)というから、家康22歳の時のことである。
三河統一を進める徳川家康は、
東三河の拠点・吉田城(当時今橋城)攻めの軍勢を出撃させた。
さて、その軍旅の途中休憩を入れ、家康は橋の側にあったお堂に腰をかけた。
そこでふと、「これは何のお堂であろうか?」と周りの者に尋ねた。
すると一人が「これは太子堂です。」と申し上げる。
家康これを聞くと、
「さては守屋退治の聖徳太子であるか。なればこれは今日の吉端であるな。」
そう言って皆と笑った。
と、その時不思議なことが起る。
空から開いたままの一本の扇が、
家康のもとにヒラヒラと落ちてきたのだ。
この扇、黒骨に白地であったとも、金地であったとも伝わる。
周りに怪しい者もおらず、皆大変不思議なことだと思ったが、
家康は太子の霊験かとも思い、
「ふむ…、これを今日の馬印として使おう。」
と言い出した。
そして扇を馬印にしたこの日、徳川軍は見事に吉田城を攻略した。
これ以後、家康の馬印は開扇と決まったのだという。
ちなみにこの吉田城攻略の日は、その月の二十日であったという。
この吉田城陥落で家康は三河統一をほぼ確実にしたが、
家康はこれを記念し、
徳川家において具足祝は二十日にするようになった、
とのことである。
家康の馬印にまつわる逸話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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