徳川氏の家臣で三河の武将・柴田政之の子に、
柴田七九郎康忠という者がいた。
永禄4年に徳川家康に仕え、吉良義昭との戦に従った。
永禄6年の三河一向一揆においては、一向宗徒であったが反乱には賛同せず、
自らの宗旨を浄土宗に改宗し、家康側に味方して一揆衆と戦った。
得意の弓技を活かし一揆を鎮圧する働きを行い、
家康から康の字を拝領するほどであった。
康忠はよほど弓の腕があったらしく、自らが放つ矢には名前を刻んでいた。
あるとき康忠と戦った相手がその名前に気が付き、彼の武勇を讃えて、
合戦で収集した康忠のサイン入りの矢=63本を
その矢で負傷した者の名前の列記と一緒に送り返した。
それを伝え聞いた家康は、奮戦の証として賞賛し、
「先の戦で63本も敵に矢を当てるは凄まじい武勇だ。
今日からお前は七九郎と名乗るが良い。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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