永禄5年(1562)、独立して間もない徳川家康は、三河国八幡で今川軍に敗れた。
この際、渡辺半蔵守綱は殿の一人として戦い、
10回に渡り馬を返して、勇敢に戦った。
いよいよ引き上げると言う時、
同輩の矢田作十郎が倒れてうめくのが目に入った。
「作十郎、こんな所でいかがした!」
「おお、半蔵か。不覚にも馬と足をやられた、済まぬが連れて行ってくれい・・・。」
「うむ、心得た!!」
半蔵、言うが早いか、手に下げた兜首を投げ捨て、
作十郎を肩に掛け、涼しい顔をして本隊に合流して、無事に作十郎を救い上げた。
これを聞いた家康は、
「味方が一騎でも討たれれば、敵に千騎の後詰めを与えるも同然、
という事がある。
今、半蔵が危険を顧みず、味方を助けたのは、
七度に渡り敵と槍を合わせるにも勝る。
よし、皆の者、これよりは渡辺半蔵を『槍半蔵』と言うべし。」
と半蔵をほめた。
こうして渡辺半蔵は、『鬼半蔵』こと服部半蔵と並び、
大武辺者として知られるようになった。
・・・と、ここまでなら普通にいい話なのだが、のちに槍半蔵、後進に語っていわく
「オレほどの者だからこそ、作十郎を救うことが出来たので、
本来ああいう時は何としても逃げるべきで、ケガ人などに助けを求められたら、
救いに行くフリをして油断させておき、刺し殺して捨てて行くのが、正しい処置だ。
味方だからと言って、いちいち助けても、ケガ人など頼りにならんからな。
なのに、間違った処置をした者をほめるとは、ウチの殿にも困ったものじゃ。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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