徳川家康公12歳、竹千代殿と申し奉る時、
中間の肩に御乗りになって、
五月菖蒲切り(端午の節句に行うチャンバラごっこ)を見物に御出になられた。
一方に人3百ばかり、もう一方には150程なり。
見物の人々はこれを見て、「人の少ない方が必ず負ける」と、
大勢の方へ立ち寄らない者はいなかった。
そのうちに、竹千代殿を肩に乗せ奉る中間も大勢の方へ立ち寄ろうとした。
その時に竹千代殿が仰せられたことには、
「どうして我を皆人の行く方へ連れて行くのだ。
今叩き合うならば必ず人の少ない方が勝つぞ。
あれほど少ない者どもが多勢を軽く思って出張っているのは、
よくよく多勢の方を弱く思ったからだ。
または両方が打ち合う時に、多勢で少ない方を助けようと思うこともあろう。
いざ少ない方へ行って見物せん!」
と宣った。
御供の者どもは腹を立てて、「知らぬことを宣うな!」と言い、
無理に大勢の方に留まった。
すると案の如く、打ち合う時に少ない方の後ろから、
大勢が駆け付けて新手を入れ替え相手を打てば、
初め大勢いた方は打ち負けて、散り散りに逃げ乱れた。
見物の者も我先にと退きふためいた。
竹千代殿は見給いて「言わぬことか!」と宣い、
肩に乗せ奉る中間の頭を御手で叩いて御笑いになられた。
『虎生まれて三日にして牛を食うの機あり(大人物は幼少から常人とは違う)』という。
この竹千代殿は今家康と名を呼ばれて“海道一の弓取り”なり。
「命長くいらっしゃれば、これぞ後には天下の主ともなられよう。」と、
心ある人は言い合ったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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