天正五年の事。
関東小田原の北条家家老衆は各々協議した。
「越後の上杉謙信が来春上洛の為、武田勝頼を旗下とすると言います。
両旗の人数おおよそ六万騎、勝頼は三州濃州に働き、
越後勢は越前より江州へ直に押し通り、都を志して上洛するという話が聞こえる事大です。
この話の通りであれば、信長家康に謙信勝頼の鑓を支えることは難しく、
彼らは謙信の旗下と成るか、そうでなければ切腹すること疑い無い。
近年、謙信公はいよいよ軍の鍛錬を重ね、軍を上手にされており、
その威勢強き事言葉にも及ばない。
必ず天下の主となるでしょう。
その果報でしょうか、去年より謙信の敵と成るものは疫病を受けて死ぬと聞きます。
勝頼も信玄ほどの工夫が無いため、長篠にて不慮の遅れを取り、
信玄取り立ての名人が悉く討ち死にしたため、
威勢衰えると言いながらも、猶以て能き者数多残り、鑓向の強きことは前代に劣らず、
それを謙信が指図して備を出すのであれば、この両旗に対し敵する者は、
首を切られないと言うことは無いでしょう。
氏政公は謙信に対しても勝頼に対しても、現在は御縁者であります。
それに、信長が滅亡した後になって祝儀を仰せに成っても宜しくないでしょう。
来春、謙信と同様に、此の方からも御馬を出し、
武田と牒を合わせ、家康を追い立て尾州江州までも御発向無くては叶わぬ道理であります。
長きものには巻かれよと申す諺に相任せ、謙信に兎にも角にも異見を任せ給えば、
行末目出度いでしょう。
武田も高坂弾正という家老が勝頼に能く異見をして、謙信幕下に属すると言います。
油断すべきではありません。」
このように北条氏政へ異見した所、氏政は同意し、北条幻庵、多馬左近両人が先ず前橋へ行き、
氏政は三郎殿(上杉景虎)へ合力のため、来春三月十六日に三万五千にて遠三尾濃へ働き、
謙信公御下知を相待つという事を北條伊豆守を以てこれを申し、
甲州にもまた使者を送った所、武田の諸勢は長篠の遺恨をこの時に至って一時に散らさんと、
各々大変に勇み喜んだのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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