天正2年(1574)1月、
対武田で、信長・家康と同盟する上杉謙信が、
徳川家康家臣・榊原康政宛に出した書状。
『越中に帰陣して以来家康に対して書状を出せませんでした。
これは全く私の本意ではありません。
内々に、旧冬の間に信濃・甲斐に調略を入れたのですが、
味方に成るものを作ることが出来ず、
そうしているうちについに越山となってしまいましたが、
その間も家康への援助を休むことはありませんでした。
味方を作るためこの春まで調略を引き伸ばして行なっていましたが、
そうしているうちに関東の諸将は何れも当方に属したので、
この18回目の越山は、西上野において放火をし、これを期に引き上げました。
ところで、甲信の武田勝頼との決戦が不可避だというのに、
信長の態度について(おそらく勝頼と和平をするというような)風聞があります。
勝頼とは必ず決戦におよび、興亡を賭けねばなりません。
この事は家康に対してもしっかり念を押して下さい。
例によって武田四郎(勝頼)は計略を色々仕掛けてくるでしょうが、
それらに振り回されすぎてはいけません。
なお、詳細は村源(村上源五郎国清)より話させます。恐々謹言。
(天正2年)正月九日 謙信(花押)
榊原小平太(康政)殿 』
(榊原文書)
謙信公、この頃は武田を、しかも織田徳川を主導する勢いで滅ぼす気満々だったらしい。
しかしそれでも、対関東の片手間感がぬぐえない書状であるw
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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