越中国の住人である神保越後(筆者注:越中守長住の事か)は、
上杉輝虎公に度々攻められ領地を放火され、
互いに敵対してその遺恨は肺肝(心の奥底)にまで達するものであった。
ある時、神保は輝虎公への計略として、自分の家老の内、或いは外様の諸士、
その他領分内の地下人であっても、誰に寄らず、見目形優なる若衆を探した所、
東国牢人(名字、名、切れて見えず)の持つ子に一人、
誠にその容姿、優なるを選びだした。
そして神保は、この子に向かって言った。
「汝を頼み、命を貰いたい。」
その時、かの少年はこのように答えた。
「いかようにも、御意次第。」
神保は満足して、この少年を結構に仕立てて、その上で申し含めた。
「貴殿、越後に行って才覚をめぐらし、輝虎を頼み奉公を遂げ、その隙を窺って、
輝虎を脇差の一突きにて刺殺するように。
もしこれが成れば、貴殿の父に越中半国を与える。」
少年はこれを聞くと、未だ十六歳であったが、いかにも機嫌よく申した。
「誠に、私をこのように見つけて頂いたこと、偏に天の恵みと申すべきでしょうが、
これも弓矢の家に生まれついた道でもあります。
どうにか、智略を廻らしてみます。」
と、委細を申し受け、越後国へ牢人した、
さて、その後にかの少年は越後春日山に来たりて、兎角を計ったものの、
中々法度が厳しく、一夜の宿すら借りることが出来ず、ようやく春日山の近郷、
長峯という所の小寺に入り、無為に過ごしていたのだが、
ある時、輝虎公が海へ舟遊山に出られた所に、
かの少年が御蹄の前に罷り出て、
「是非御奉公を。」
と望んだ。
輝虎公はこの少年を見られると、安田という侍に預けられ、
「本国はどこの者か、父は何という者か、
所縁を委しく調べ、その首尾を以て召し使うかどうかを決める。」
と宣われた。
安田承り、少年に本国、先祖を尋ねた。
それについて彼はこのように答えた。
「本国は関東の者でありますが、国乱れるによって信州へ牢人仕った所に、
父は去る年、こあらま合戦(天文九年の小荒間合戦ヵ)にて討死仕り、
今は母一人居ります。」
また安田は問うた。
「その母は現在何処に在るか。」
「信州更科と申す所に居ります。」
安田は委細を聞いて、直ぐに信州に飛脚を出し、事の様子を尋ねさせた所、
少年の言ったような人物は一人も無かった。
そして飛脚の者は罷り帰ってそのことを報告すると、
それを聞いた安田は、再び少年に問うた。
かの少年は、未だ若年の余りであろうか、これを聞いて色を変じ、
それまでと様子が一変した。
それらの事どもを一々に言上すると、輝虎公は疑念を発せられ、
少年を領内から追放した。
その後、上杉領国の法度はますます厳しくなり、
神保は本意を遂げることが出来なかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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