永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、
上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を攻撃したが迎撃され、
逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。
この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、
これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、記載していない。
謙信は、
「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。
これは我が油断のためである。」
と、後々まで無念に思い悔しがった。
ところが、本庄繁長と長尾藤景がこれを可笑しく思い、
若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を批判した。
このため本城も長尾も、謙信の気に背き、
謙信は、本庄に長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長は長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。
このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に反旗を翻し籠城を行うのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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