永禄6年、
越後の上杉輝虎34歳の正月11日、輝虎は一族および譜代の家老、
物主(物頭)らを招集し、
彼らを前に突然、このようなことを語った。
『私は道七居士(長尾為景)の八男であり、誠に末流であったのに、
世間の転変により不思議な事に、
長尾の家督を継ぎ、惣領職と相なった。
しかし、これは私の本意ではない。
何故かといえば、春秋左氏伝を始めとして異国の歴代の事跡を考え、
また本朝(日本)の書伝を見るにつけ、
私のしたことは簒奪の汚名、廃立の慙徳、賢明な人たちからの異論、
万世にわたって続く誅筆、こういったものから逃れることはできない。
そもそも、今さら言うのも恥ずかしいことだが、
我が父・紋竹庵(為景)が一旦の恨み事で、
主君上杉房能を弑殺し、また管領上杉顕定を討ちまいらせ、
逆威を振るっていたところ、天鑑は蒙昧ではない。
ついに越中において命を落とされた。
私もまた、越後の御屋形様である上杉定実公の命令とはいえ、
兄の長尾晴景を討った事、千歳の悪名である。
然れども、国家のために大義を行い、身の誹りを顧みることはない。
ただ、これ故に一生妻子を置かず、これを以って世の人々に謝罪したい。
この上は、弥持戎清浄の出家となるべし!』
こうして輝虎は不識院心光謙信法印と号した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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