将至って剛きは、則ち士必ず応じず☆ | げむおた街道をゆく

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永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は、

近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて北越を御進発され、

北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
 

上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、

小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。

 

その足で直ぐに木澤城に押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、

荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、

上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、

当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、

北国、南海、京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、

小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の、
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。

これにより軍勢は平井の陣所からあふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。

そのような中、所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、

初対面となる東国武士の心も知らず、諸手へ乗り入れ兜も被らず、

白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、

その人を虫とも思わぬ振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、

自分たちの首の斬られる事疑いない。」

そう思って困り果てない者は居なかった。

『将至って剛きは、則ち士必ず応じず。』

という兵法の言葉は、この事なのであろう。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 越後の龍・上杉謙信、目次

 

 

 

 

 

 

 

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