天文六年、八歳にして長尾景虎は勇猛にして兄三人を凌いでおり、
その頃下越後の領主、加地安芸守春綱に実子が無かったため、景虎を養子と定めた。
そして景虎に、この家督を継ぐべき旨を、為景が直に申し聞かされたのだが、
景虎はこれを悦ばず了承しなかったため、為景は怒って、
屋形である上杉定実に訴えて諸老臣と談じ、景虎を下越後へと追い下した。
これにより景虎は府内を出て、米山を越した。
傅役の金津新兵衛を始め四、五人が供であった。
この米山は上り四里下り四里で、峠に薬師堂があり、米山寺といった。
この堂より見下ろすと、越後の国中が眼下に見えた。
この堂の縁で休み、景虎にも破子(弁当)を進めた。
景虎は八歳であったが、年頃よりは少し大人びていた。
堂の縁を遊び廻り、金津新兵衛に向かって言った。
「この度の無念を晴らし本望を達するには、この山が能き陣所であるから、
この筋にて合戦をすべし。
頸城、古志、府内の城を眼下に見下ろす、能き陣場である。」
これを聞いた新兵衛は涙を流し、
「その言葉を忘れ給うな。頼もしく候。」
と悦んだ。
果たして十一年後の天文十六年五月、景虎は、兄・晴景と一戦し、大利を得られ、
越後を切り取られたが、その時この米山が合戦場であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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