今日は少し哲学的なお話をします。

 

さて、中庸とはどのような生き方なのでしょうか?

 

孔子は「君子は中庸を守り、小人は中庸に背く」と言いました。

アリストテレスは「中庸とは徳を知見の下に、両極端の中間に置くこと」と言いました。

 

ここに一台のシーソーがあります。

日本語で言うと、ギッタンバッコンですね。

シーソーの左右の座席には、それぞれ対照になる言葉が乗ります。

シーソーの支点は真ん中にあります。

中庸的な生き方とは、左右どちらにも偏らない、板が水平になった状態のことです。

この時の支点が あなた というわけです。

 

左右の座席に乗るのは、例えば、好きと嫌い、利己と利他、善と悪、光と闇、苦と楽、男と女、自分と他人、損と得、生と死、若さと老い、肉体と霊魂、この世とあの世、過去と未来、などです。

 

好きと嫌い は思いっきり人を好きになったり、思いっきり嫌いになったことがなければ、中庸である「好き嫌いを無くす」ということはできないと私は思っています。

私はそもそも人が苦手です。

子供の頃から恥ずかしがり屋で人の前に出るのが本当に苦手な子でした。

それでも若い頃はよく恋に落ちていましたね。

嫌いになった人もいますが、今は反省をして心で詫びています。

そういう経験を積んで、段々と好き嫌いが無い心が作れていくのではないかと考えています。

 

このようにシーソーの左右両方を経験、体験しなければ、中庸の心を作るのは難しいと私は思っています。

例えば この世とあの世 ですがみなさんが口を揃えて言うのは「あの世なんて行ったことがないから分からない」と言います。

でもみなさん気づいていないだけで、あの世にはいつも行っているし、体験済みな筈なんですね。

 

寝ている間にも行っていますし、現に今もあの世に生きています。

あの世というのは霊界のことであり、霊魂が生活をしているところです。

この宇宙すべてが霊界ですし、みなさんは肉体を着た霊魂なのですから。

「人間は霊魂である」という生き方をしたからこそ、肉体も大事であるというように、どちらにも偏らない中庸の生き方ができるのではないかと私は思っています。

 

男と女もそうですね。

そもそも霊魂には性別がありませんし、肌の色の違いも、言葉の壁もありません。

そう考えると、東大教授の安冨歩さんなどは、まさにどちらにも偏らない中庸の生き方をされているのではないでしょうか。

 

「情けは人の為ならず」と言う言葉があります。

苦難や困難、悲しみや病気などは、実はその人に気づきを与えるために起きているのかもしれません。

ここで気づけばそれだけ早く修正ができるのに、情けをかけて助けたがために気づかずに、もっと先に行ってから大きな苦難や困難となってくるかもしれないのです。

 

霊的な視点で見て、苦難や困難、悲しみや病気などが偶然に起きることはありません。

すべて原因があっての結果なのです。

これらは各個人が、一人一人が自分で対処していくしかないのです。

そう言う経験・体験を積んで、魂は成長し、進化していくのだと思います。

 

こう言うと、ものすごく冷徹に聞こえるかもしれません。

人間的ではない、冷たい、と思われるかもしれませんが、決して冷たいわけではありません。

私は多くの人を助けてあげたい、本気でそう思っています。

でもそれはある種のエゴであり、このように偏らない中庸こそが慈愛という愛ではないか、という思いは強いです。

 

中庸で生きるには、さまざまなことを経験・体験しなければなりません。

シーソーの左右どちらの経験・体験もしていなければ、中庸な生き方は難しいと思います。

 

ですから若い時には、少し無茶をするくらい、さまざまなことにチャレンジしてほしいと思っています。

 

私個人は、霊的な摂理を理念とした上で、中庸の生き方をしたい、そう思っています。