ベジタリアンは肉と魚を食べない人のことであり、ヴィーガンはそれらに加えて卵と乳製品を食べない飲まない人のことです。
様々な定義があるようですが、私は単純にそう定義しています。
私がなぜヴィーガンになったのかというと、一言で言うと「生命とは何か」が分かったからです。
分かったというのは理解したという意味ではなく、おそらくインスピレーションのようなもので入ってきたのだと思います。
なぜならば、たとえ「シルバーバーチの霊訓」などの書籍を読んでも、そのようなことは書いてないからです。
シルバーバーチの霊訓には、「生命とは霊のことであり、霊とは生命のことである」と書いてあるだけです。
では「霊」とは何か? ですが、霊とは「非物質の生きている賦活性のエネルギー」のことです。
この霊というエネルギーを活かすのは、誰あろう自分という魂なのです。
つまり霊というエネルギーは魂という意識と意志があるから働けるのであり、また魂は霊というエネルギーがあるから成長していけるという、ともに必要不可欠な存在として「霊魂」は成り立っているのです。
そして魂が成長することを「生命の進化」と言います。
ダーウィンの進化論は生命の進化のことではなく、身体の進化のことを言っています。
歴史を覆したいわけではありませんが、本当に大事なのは「生命の進化」の方なのです。
生命は霊魂の進化の立ち位置によって、付ける身体が変わってきます。
何をいっているのかと言いますと、例えば私たち人間はなぜ人間なのかと言いますと、私たちという霊魂が人間の肉体を付けるのふさわしいまでに成長、つまり進化した結果人間の肉体を身に付けているということなのです。
私は、自分という魂が生まれてから人間の身体を身につけるまでに様々な身体に宿っていたという意識に至りました。
その結果、すべての生き物は私自身なのであり、私という魂の変遷そのものである、という意識を持ったのです。
私の言うすべての生き物というのは、動物、鳥、魚、ムシ、ウィルスに至るまで、すべての生きて動く生物です。
そしてこれはこの見える世界だけではなく、見えない世界も同じであるという意識に至ったのです。
私たちの魂というのは生まれてから人間の身体を身につけるまでに数百万年の年月がかかっている、シルバーバーチの書籍にはそう書かれている部分があります。
そして私たちはサルだった時があるわけではなく、魂が成長する為にサルという身体 に宿っていたことがある、シルバーバーチはそうも語っています。
このことは魂が進化してくれば理解できるようになります。
そして自分は様々な身体を変遷しながら魂を成長させてきたのだと納得することができるようになってきます。
その結果、私はヴィーガンになり、グルテンフリーになり、そしてカフェインレスになり、今はそういう食生活を楽しんでおります。
卵は単純に生き物の子供だからであり、乳製品は本来牝牛が子供に飲ませるためのものであり、それを人間が横取りしていると思うからです。
それから乳幼児や妊婦のアレルギーについては、霊的なものが左右していると考えています。
つまり、赤ちゃんはもともと霊魂だったのであり、その霊魂に合わない食品の結果が身体に出ていると考えています。
その為にグルテンフリーとカフェインレスも続けています。
これってものすごい修行のように思われるかも知れませんが、慣れて仕舞えばそうということはありません。
もともとそういう意識があったのではないかと思われるかも知れませんが、そうではありません。
肉も魚も卵も乳製品もラーメンも大好きでした。
ただコーヒーは濃いものは好きではありませんでしたが、カフェラテなどは普通に飲んでいました。
ですからこのようなものを断つ食生活に一気になったわけではなく、徐々にしていったということです。
生命とは何かが分かってきた中でもやはり「自分だったものを食べることはできない」という意識が大きかったと思います。
もうこういう食生活をして10年近くになると思いますが、今私が言えるのは、「未来の人間はこういう食生活になる」ということと、「その結果、病気がなくなり、そして争いがなくなる」ということです。
それからムシが殺せなくなりました。
小さなムシを見ると可愛いと思う意識に変わりました。
臨機応変に肉や魚を抜いてくれない高級レストランとは相性が悪いです。
外で活動する時は、コンビニのおにぎりやテンヤの野菜天丼や日高屋で肉抜き野菜炒めをお願いしたりして空腹を満たしています。
回転寿司店でかんぴょう巻きやきゅうり巻き、いなり寿司などを食べることもあります。
厳密に言えばこれらにはカツオの出汁などが添加されていますが、そのくらいはきっと許してくれるのではないか、そう思っています。
大事なのは生きるベクトルが進化の方向に向かっているかだと思います。
人間ですから、失敗もあります。
でも、一つ一つの細かいことよりも、魂が向かっているベクトルが進化する方向からブレないことが大事なのだと思います。
「日常こそが魂の修行の場」であるということと「謙虚であれ」という意識を忘れないようにしています。
魂の修行と思えば、自分に起きる事象はすべて魂の成長のためであり、想定外はなくなるはずです。
自分に起きる困難なことほど、魂にとっては有り難いものなのです。
意識が変わるのは、大きな病気、大きな悲しみ、そして危機的な状況などがトリガーになることが多いようです。
ですからこのようなことが起きたら、「自分(魂)にとっては千載一遇のチャンスである」、そう思えば良いのです。
そう思って、損得ではなく、最善を尽くすようにすれば良いのです。
霊魂がこの世に誕生したのは、魂が少しでも霊の完全性を表せるように磨きをかけるためであり、向こうの世界に行ってから充実して生きるためです。
肉体は束の間ですが、霊魂は永遠という時間が与えられているのです。
自分という軸を肉体ではなく、霊魂に置けば良いのです。
肉体は結果であり、原因は霊魂にあるのです。
肉体は歳をとりますが、霊魂は歳をとりません。
霊魂は永遠であり、肉体は霊魂の反映に過ぎないのです。