中国広州の旅(1999年) | 鉄道で行く旅

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1999年10月に香港から日帰りで出かけた広州への旅です。

この日に広州から香港への帰りに乗車した広九鉄道の新時速(1998年の電化後に登場し2007年に運行を終了)です。

今はない新時速はスイスのABB社が開発したものです。その後ABB社がドイツのダイムラー・ベンツと合併したことからABBダイムラー・ベンツ トランスポーテーションという名前に変わっていました。

 

香港のホンハム駅です。往路は東鉄線で中国本土の深センと接している羅湖駅に向かいました。

 

まだ健在だった香港・東鉄線の車体更新前のMLR形です。英国のバーミンガムにあったメトロポリタン=キャメル客貨車会社の製造(製造初年は1982年)でした。

 

車体更新後のMLR形の車内です。車体の上部が内側に傾斜しています。

 

中華人民共和国広東省深セン(センの漢字は機種依存文字)市羅湖区と香港特別行政区北区羅湖の間に位置する出入境検査場「羅湖口岸(らこ こうがん)」を抜けたところです。なお、この1999年の段階では短期間の観光目的でも中国本土への入国には必ずビザが必要でした。

また、出入境検査場に入る前に検査場とは反対側にあるプラットホーム側の写真を撮ろうとしたら、警官のような制服を着ていた人から「ここで写真を撮ってはいかん!」と叱られました。

 

1999年当時の深セン駅の駅舎です。まだ改築の途中だったと思います。

この頃(2002年ぐらいまで)の深センは、1980年に鄧小平が中国初の経済特区(資本市場開放特区)に指定した後、工場の誘致等により第1段階である「労働集約型産業都市」になったということでしかありませんでした。そのため、まだ農村部から出てきた中国人が集まっている街という程度であり、香港に隣接していることや深セン駅周辺のビル群の開発規模から潜在的な可能性(ポテンシャル)を感じましたが、衣食などの生活習慣は、まだ中国の農村とほとんど変わらないものでした。このため、第1段階当時は、香港から深センに入ったときには、いきなり中国の田舎町に来てしまったと感じてしまうほどの落差があったのです。

その後の深センの発展は、第2段階の「IT・ハイテク産業の発展時代(2003~2011年)」を経て、第3段階の「イノベーション都市(2011年~)にまで進んでいます。

 

当時の深セン駅に掲げられていた「中国初の高速列車・新時速」の広告看板です。これも旧中国風の古臭いデザインのものでした。

それから、深センに本社がある有名企業のファーウェイ(「華為技術」1987年創業)は、元々は基地局やその背後にあるコアネットワークの開発を行う地味な通信機器ベンダーでした。以前から副業のような感じで、ガラケーとかWi-Fiルーターなどの一般消費者向けのOEM製品を受託生産していましたが、そこから脱却してファーウェイが自社ブランドの端末を製造するようになったのは2013年以降です。

 

中国の広深線の深セン駅から広州東駅まで乗車したSS8形が牽引する準高速列車です。

 

たぶん25Z系客車と呼ばれていた160km/h運転対応の高速客車だったと思います。画像は私が乗車した軟座車(1等座席車)です。

この車内では、警察権を持っている列車服務員(女性)が厳しい態度で乗客に接していたことが印象的でした。

「帽子掛けに荷物を吊るしてはいけません」「下車するときにはリクライニングシートを元の位置に戻しなさい」などという命令口調でした。

また、この車内ではBGMのような中国の民族音楽と一緒に女性の声のスローガン録音放送がエンドレスで流れ続けていました。

 

広州東駅で準高速列車から下車したときに見た2階建て客車です。

 

まだ工事途中だった広州東駅の駅舎です。

 

1999年に全線が正式(観光用としては事前に部分営業を開始済み)に開業した広州地下鉄(地鉄)1号線です。画像のようなロングシートの5扉車でした。

現在の広州地下鉄は北京・上海に次ぐ世界で第3位の大規模な地下鉄網になっています。この1号線開業当時だけを知っている人間には、ちょっと信じられないぐらいの大発展ぶりです。

 

広州東駅では、こういうガラ空き状態でしたが、次の駅では多数の広州市民が車内に雪崩れ込んできました。それはもう怖いぐらいでした。

 

公園前駅で地下鉄を降り、広州名所の六榕寺を訪問するつもりで町を歩きました。まだスマホが存在しない時代でしたので、道が判りにくく、中国人に筆談で道を教えてもらいながら寺の近くまで来たところで時間切れになってしまいました。
道路から宋時代(10世紀)に建てられた高さ57mの六榕塔を見えたところで撮ったのが画像の写真です。

 

広州市内を走るトロリーバスです。私の少年時代は大阪市内でもトロリーバスが走っていました。十三(じゅうそう)まで行くと見ることができたのです。

 

思わず大阪市内のラッシュ時に見た大阪のトロリーバスの記憶が蘇ってきました。

画像のようなトロリーバスの並走運転を少年時代に見たことがあったのです。

 

広州・香港直通列車の場合、広州東駅で中国本土の出国審査を受け税関を通って待合室に入ります。このあたりはユーロスターに似ていました。乗客は発車の20分前までに待合室で改札の開始を待ちます。待合室には免税店もありました。

人民元(*)を使い切ってしまいたかったので広州東駅の免税店でオーストリアのスワロフスキーの「Krisベア(たぶん)」を買いました。

このときに2人の女性店員が接客してくれました。所持していた人民元の全てをテーブルに並べたところ、本当は少しだけ代金が足りないようでしたが、年長の女性店員がOKを出して、値引きしてくれたような感じでした。まだ中国ものんびりとした時代だったのかもしれません。

買ったときのメモには「スワロフスキーのパンダを買った(笑)」と書いていましたが、今見直したら「Krisベア」だったようです。

このような、会社名や地名それに駅名を読み間違えていて、何年も経ってから間違いに気がつくというのは、よくあることです。

最近で、誤りに気がついたのは、茨城県の古河駅(こがえき)と宮城県の古川駅(ふるかわえき)の読み方を混同していて、古河駅(こがえき)を「ふるかわえき」と誤読していたことでした。

* 人民元:1994年に外国人用の「通称が中国元の外貨兌換券」が中国人民用の人民元と統一された後でしたので、もう人民元=中国元になっていました。

 

広州東駅から香港までノンストップで直通運転を行っていた新時速に乗車しました。パスポートコントロールを抜けた後の中国本土出境後のため、柵のところに何名かの鉄道関係者や警官・軍人のような方々が並んで警備を行っていました。

 

広州東駅の香港行列車ホームから見た懐かしの緑皮車です。

 

新時速(シン・シー・スー)の機関車側を撮影しようとしたら、警備していた軍人に叱責されたという情報を得ていましたので、制御客車側を撮影しました。それでも、スパイ容疑で拘束される可能性がゼロとは言えないため、ちょっと怖かったです。

この車両は中国の高速列車の本格導入の前に、一時的なリリーフ役としてスウェーデン国鉄のX2000(後のSJ2000)をリースしていたものです。この乗車当時の塗装は、今の中国の高速鉄道車両とは異なり、昔の中国のオリンピック選手のユニフォームのような垢抜けしない感じの塗装でした。たしか新時速は全車両が特等車(プレミアムカー)で運賃・料金も高かったと思います。

当時のメモによると、広州東駅から香港ホンハム駅までの174kmの所用時間が1時間32分でした。中国本土では最高時速が200kmですが、香港の通勤路線である東鉄線では通勤電車並みの速度になります。

 

香港で下車するときに撮影した新時速の車内です。この列車では往路の中国国内の準高速列車とは異なり、欧米人を含むビジネス客がほとんどでした。また客室のサービスも、制服自体が、すでに怖~い感じだった列車服務員ではなく、制服を含めて航空会社のキャビンアテンダントのような英会話もできる列車アテンダントが乗車していました。

車内でワゴンサービスがあり、列車アテンダントと欧米人客との会話を聞いていて吹き出しそうになりました。

A「お飲みものはいかがですか?」

客「オレンジジュース」

 ワゴンサービスが次の席に進んだ頃 ・・・

客「ちょっと君! これはオレンジジュースじゃないよ!」

A「それがオレンジジュースです」

客「・・・・、いいよ、わかった」

私は、その客よりも先に、そのオレンジジュースとやらを飲んでいました。それは明らかに、少年時代に慣れ親しんでいた「パレードあるいはネーポンだったかの駄菓子屋の瓶ジュース」に似た、思い切り加糖・着色された「オレンジ味の清涼飲料水」だったのです。

ここでは、どうでもいい話だけどパレードのミルクセーキの味が懐かしいです。

別に中国人アテンダントの肩を持つつもりはありませんけれど、この時代の中国の列車内で高級ホテルのティーラウンジの生ジュースやパリのカフェであればオーダーが可能な生搾りオレンジジュースを期待する人のほうが間違っていると思いました。

 

無事に香港に帰る着くことができました。

(完)