秋月を歩く | 鉄道で行く旅

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この投稿の取材日は2019年3月22日です。

今回は甘木鉄道の甘木駅に着いたところからです。

左が乗車した旧国鉄急行色のAR305で、右側は甘木の山や農地をイメージした緑色のAR304です。AR304は、京阪の旧一般車塗装に少しだけ似ているかもしれません。

基山駅で撮影した旧国鉄急行色のAR305です。

 

甘木鉄道の開業時以来のデザインを守っているAR301です。つまり、これが甘木鉄道標準色ではあるのですが、ゆとりがある3セク会社だけに全ての車両(7両)がそれぞれ独自の塗色になっています。

 

旧国鉄から第3セクターに転換した甘木鉄道の甘木駅です。地方の鉄道駅としては、かなり立派な駅舎です。

♪あなたと 越えたい 甘木(あまぎ)駅~

内田百間(岡山の「百けん川」から名づけた「けん」の正しい字が機種依存文字のため「間」で代用)の「阿房列車」に『甘木君』という仮名の人物がよく出ていましたが、あれば「某」君という意味に過ぎず、「某」の字を分解して「甘木」と書いていたのです。

 

甘木観光バスの路線バスで秋月に向かいました。甘木観光バスは福岡県朝倉市の旧甘木市地区の旧西鉄の『乗合』バス路線の一部を継承したバス事業者です。

 

「目鏡橋(めがねばし)」のバス停でバスを降り、野鳥川に架かっている「秋月目鏡橋」を見学しました。

秋月藩(黒田家)が1810年(文化7年)の長崎の石工に作らせた橋です。昭和時代まで、この橋がクルマも通る道路(街道)として使われていましたが、橋を保護するために、現在は「目鏡橋」を迂回する道が通常の交通路になっています。

なかなか風情がある「秋月目鏡橋」でした。

 

【参考画像】長崎の眼鏡橋です。(2013年6月撮影)

秋月藩8代藩主の黒田長舒公が「秋月目鏡橋」を作るきっかけになった「眼鏡橋」です。

長崎の眼鏡橋は1634年(寛永11年)、中国から来日して興福寺の2代目住職となった黙子如定(もくすにょじょう)によって架けられたものです。1982年(昭和57年)の長崎大水害で大きな被害を受けたものの流失は免れ、元の姿に戻されました。

 

石田家住宅です。この建物は秋月藩の御用商人であった甘木屋遠藤家の持家だったもので江戸時代の18世紀末の建築です。個人宅ですので内部は公開していません。

左にあるのが樹齢400~450年と推定されているイヌマキの木です。豊臣秀吉によって父祖の地を追われた秋月氏の置きみやげとも、黒田長興のよる城下町建設の当初の頃のものとも考えられているそうです。

 

秋月橋から見た野鳥川の風景です。

 

屋敷が続く道です。城下町らしい風景です。

 

ハナモモと菜の花です。

 

サクラの名所である「杉の馬場」です。秋月城跡の瓦坂が見えています。

 

このときは、サクラの花が少しだけ咲いていました。

 

秋月城跡に建っている秋月中学校の校門です。

少しばかり似ている、秋田の矢島生駒藩(生駒家は矢島では交代寄合→最終的には大名に復帰)の矢島陣屋(八森城)跡の由利本荘市立矢島小学校を思い出しました。

 

【参考画像】

由利高原鉄道

1996年に訪問した生駒家・矢島陣屋(八森城)跡です。今は秋田県の由利本荘市立矢島小学校の校地になっています。

由利高原鉄道

そういえば、矢島も旧国鉄矢島線から第3セクターに転換した由利高原鉄道です。(1996年)

 

秋月城跡の長屋門です。

 

秋月城跡の黒門と椿の花です。

 

秋月城は秋月氏が豊臣秀吉の「九州征伐」で秋月氏が敗れて日向の高鍋に移封になった後は廃城でした。

その後、1624年(寛永元年) に福岡藩主黒田長政の三男の黒田長興が福岡藩2代忠之より5万石を分封され秋月城跡地に陣屋を置いたものが福岡藩の支藩である秋月藩の藩庁でした。

 

秋月には秋月博物館や秋月美術館があります。

私が着いたときには閑散としていた秋月ですが、正午を過ぎた頃から中国人の個人旅行者や西洋人の団体客を見ました。

 

小さな社の石の鳥居の近くで「ヒモモ」と思われる花が咲いていました。

 

黒田家の菩提寺である古心寺に向かう道です。

このあたりで時間切れになり甘木観光の路線バスで甘木駅まで戻りました。

帰りは西鉄を利用しました。西鉄甘木線の甘木駅です。西鉄の駅舎の中では現存最古の1948年の建築です。

西鉄なので全国共通の交通系ICカードを利用することができます。

 

西鉄の甘木駅にはワンマン運転用の7050形が停まっていました。この電車は甘木から大牟田まで直通運転しているようです。

(つづく)