三宮の不動産屋女社長奮闘記

プロ野球、阪神タイガースの外野手、

橫田慎太郎さんが脳腫瘍の為、

7月に28歳でお亡くなりになりました。

 

私は野球が好きですが、

プロ野球は特別に好きなわけでも無くて、

橫田慎太郎さんという選手がいたことは知りませんでした。

 

NHKのドキュメント番組を、たまたま観て、彼の存在を知りました。

それも、ご存命の時の彼の出演ドキュメント番組で、

脳腫瘍が発覚し、視力が異常になって、

ボールが二重に見えて、守備も打撃も出来なくなり、

それでも3年間、試合出場はできなくても、

日々、練習に励んでいた彼のお話しでした。

 

3年間、再起にかけた彼でしたが、ついに引退の決意をされます。

 

引退試合、実績のある有名選手にのみ花道として与えられるもの。

ところが橫田選手には引退試合が用意されました。

 

ボールが二重に見え危険なので、9回の守備のみという引退試合。

 

ところが8回の守備に監督からの声がかかります。

いつも精一杯の全力疾走で守備につく姿をファンに見せたい、

そんな真面目さが、仲間やファンに彼が好かれていることを、

監督も知っていたので、約束の9回を8回からに変えたのでした。

 

ここで大きな不思議が起こります。

彼の守るセンターに二度連続して打球がきて、

一度目は、見づらい目のせいで、うまく処理できませんでした。

 

ところがランナーがいる二度目の打球、

彼が言うには、誰かに前進するように背中を押されたようだったと、

見えないはずの彼のグラブに打球が収まり、

彼は全力でバックホーム、奇跡のタッチアウトとなるのです。

 

3年間、試合に出る機会が無くても、

毎日、誰より早くグランドに出て練習してきた彼への神のご褒美。

そんな不思議な奇跡のバックホームでした。

 

彼のインタビューの受け答えを見ても、

彼の純朴、真面目、人の良さが、一度に感じられ、

なんというか、誰もが好きになる青年、そのものでした。

 

同じく野球少年だった次男と同年代の橫田慎太郎さんに、

涙と感動をいただいたお話し、共有いただけたらと思います。

ビートルズの楽曲やメンバー、

それらは、もちろん知っています。

ただ、世代的に真っ只中というのには、

私は少し若いのかなと思います。

 

少しだけ、お兄さんや、お姉さんの世代なのかなと、

そんなビートルズのドキュメント放送が放映されていました。

私の知っているビートルズと重ね合わせながら、興味深く、

ドキュメント番組を拝見させていただきました。

 

長髪の4人組ロックンローラーは、

今では考えられない、理髪業者からの反発、

若者が髪を切らなくなるから散髪屋さんは困るという理由。

 

スーツ姿のオジサンは、「奴らはゲイだ」と、吐き捨てておられて。

これも、今では考えられない、LGBTへの性差別発言。

 

1960年代から、大きく時代が変わったものだなあと実感しました。

それは、そうでしょう。

私たちは時代と共に生きてきましたが、

10年ひと昔どころでは無い年月が経っていますから。

 

ビートルズがお兄さんお姉さんの年代とは言え、

その楽曲は、私も数曲は口ずさめるほどポピュラーなものです。

 

但し、幼い私が知らなかった、ビートルズが時代を変えたこと。

 

当時のイギリス、大英帝国では、

身分がはっきりと、別れていたこと。

王室を始めとする貴族階級、

大地主や富豪たち、

そして、単純労働に従事する労働者階級。

 

その階級の垣根ともいうべき大きな壁を、

4人の労働者階級出身の若者の力で壁を取り外していったことを、

あまり知りませんでした。

 

彼らが、王室のパーティーで曲を披露した時、

ジョンのラストの曲前のスピーチで、

「後ろの方の貧乏なお客様は拍手してください」

「前の方の、お金持ちは宝石をジャラジャラ鳴らしてください」

笑いながら、こう言ったこと、私は知らなかったのですが、

階級への、すごい皮肉だったのだと思います。

 

決して、彼らは力んで皮肉を言ったのでは無かったことが、

どの階級にも受け入れられたのでしょう。

 

1964年のアメリカでのコンサート、

人種差別が当たり前の時代、

ビートルズのメンバーは黒人音楽家を尊敬していたのもあって、

観客席に黒人席と、白人席がある垣根を外さないと、

演奏しないと言い、垣根を外して演奏したこと。

 

その観客の中に、感動した黒人の娘さんがいて、

その黒人の娘さんが、後に有名女優となる、

「天使にラブソングを」のウーピーゴールドバーグさんだったとか。

 

今更ながらですが、

楽曲以外でのビートルズの偉大さに感動しました。

 

番組を見て、時代の流れに思いをはせ、
様々な思いを持たせてもらいました。

私の故郷は小豆島です。

中学の頃、高松から赴任してきた お兄さんのような先生。

「二十四の瞳」の大石先生の男性バージョンのような、

思いやりのある優しい先生でした。

 

10年ほど前から若年性アルツハイマー病にかかられた上に
膵臓癌も見つかり、余命幾ばくも無いことが、奥様から
連絡が入りました。

先日、集まれる人が集まり、寄せ書きをし、
その寄せ書きを持って、代表5人でお見舞いに行ってきました。

 

皆、いい歳になってはいますが、

同級生達は今も仲良しで、50年近く前の頃にすぐに戻れます。

 

残念ながら、先生は、みんなの名前と顔を、頭の中の消しゴムで、

消してしまわれている感じでしたが、

お互いの、教師と生徒の絆の力とでもいうのでしょうか、

不思議な力がお互いの心に、あの時を思い懐かしむ気持ちを、

蘇らせてくれていたような気がしていました。

「通じ合ってる」

そのような感じがしました。

女子中学生に戻った私は、心の中で、

頼れる先生に甘えていました。

 

田舎の大きな平屋の邸宅で、

同じ敷地内に息子さん家族、お孫さんも三人、

奥様は、先生に献身的につくされているご様子。

 

病気にはなられていますが、

先生は、幸せな人生を送ってこられたのだろうなと感じられました。

 

本田宗一郎さんが、井深大さんに送られた晩年のお手紙に、

俺たちは飛行機乗りで、

離陸するのは容易くて、離陸した後は大空を自由に飛び回り、

見たい景色を見、行きたいところに行けたけれど、

着陸は難しい。

うまく着陸することが、人生でも大切なことなのだ、と。

 

先生をお見舞いして、

本田宗一郎さんの人生の着陸のお話しのお手紙を思い出しました。

 

私も、たくさんの冒険や、充実した飛行を経験してきましたし、

まだしばらくは、飛行を続けますが、

安全な満足できるような着陸が出来るように、

しっかりと、落ち着いて考えないとと思います。