三木市の石碑~⑧是恭弟子・鈴木徳兵衛の墓碑の中で、『三木市芝町正入禅寺の梵鐘は、戦時中の供出の難に遭って、現在は跡形もない』と述べていたが、その後、松村義臣先生の「ふるさと三木文庫(9)私の寺院取材簿~正入寺片々」に鐘銘が写取って寺蔵されていた文献が見つかったので報告しておく。更に、嬉しいことに、境内にあった不明な二つの宝篋印塔についても、詳報されていたので紹介する。

 

(1)まぼろし鐘銘

正入寺の長尾住職を訪れた時、お話の中で、今は無いこの梵鐘、鐘楼は鈴木徳兵衛さんの寄付と認識していたが、松村義臣先生文献からは、初代・鈴木利右衛門さんであったことが、下記に示す鐘銘の写しから判明した。

「ふるさと三木文庫(9)私の寺院取材簿~正入寺片々」 (三木市立図書館蔵)に載る写真。

鐘銘が写取って寺蔵されていたものだそうだ。宝暦10年(1760)の紀年銘、文字は陽刻と伝える。びっしりと銘文がある。この文庫に全文が記載されているので参照されたし。

要約すると次の様である。

  施主 播州三木平山町京屋 鈴木利右衛門 安永3年(1772)に他界。法名は孝山道寿居士 与呂木出身で

  平山町に移り住んだ分限者である。鈴木利右衛門(諱は義理)は亡き四人の子供のために鐘を造り寺の法器

  とし、暗い現世に生きる人々のための覚りのしるべとした。

  銘文の筆者  慈眼寺21世萬春慧億和尚で隠居後、正入寺第4世をついだ学僧。(正入寺は慈眼寺の隠居寺

            という形であったという)

  銘文の依頼者 慈眼寺22世の智学和尚。正入寺5世であつた。

  碑文の内容  本文に詳細が記載されている。正入禅寺の創建の過程や歴代住職、鈴木利右衛門のこと、

             更に、梵鐘の功徳は大きく永遠に不滅であることなどである。

 

(2)二つの宝篋印塔

 

昭和44年頃、墓地の北側から撮影した写真と思われ、二基が並び建つ。

文庫中には『墓地中央に一きわ目立って二基の宝篋印塔がそびえている。時代は江戸中期のもので美術的に珍しいものではないが、塔身一面に刻銘をもつ、一字一石の供養塔であることに心ひかれた。全文をお知らせして、その建立の事情を聞くことにしよう』とある。

現在は、三木市の石碑~⑧是恭弟子・鈴木徳兵衛の墓碑で報告した様に、上記写真の右側宝篋印塔は崩れて碑文も判読できない。

現在の状況(墓地南側から撮影)

現在残る宝篋印塔(44年撮影写真の左側の塔)

   明和8年(1771)に法華経一部八巻の書写完了。供養塔建立で書写の功徳を記した。

   建立者    鈴木義理で生存中のことである。宝暦10年の梵鐘の寄進者。

   銘文の筆者 閑僧蘭香外で慈眼寺隠栖(後に正入寺九世となった蘭洲和尚か)

松村先生の本文庫中の銘文解説の冒頭は

 夫れ仏法・世法は一片を打成し世事仏事、二途あるなし。故に六祖大師云ふ。世を離れて法 

 を求むるは兎の角を求むるが如しと。茲に播陽美嚢郡三木郷の鈴木義理、善男にして一時に

 願心を発し・・・・』  と始まっている。

 私が今回撮影した銘文を拡大した下写真は見難いが、はっきりとこれらの文字を確認できる。

 

現在朽ちて崩れている宝篋印塔(上記写真の右側の塔)

鈴木利右衛門(諱は義理)の供養塔。

一行八字十七行の漢文である。安永7年(1778)、父義理の遺志に従って嗣子吉五郎重考が造立。吉五郎は二代理右衛門で天明7年(1782)に寂した。撰文 正入寺八世大梁禅志大和尚で文化6年(1809)寂した僧である。

 

三木市の石碑~⑧是恭弟子・鈴木徳兵衛の墓碑について

松村義臣先生は本文庫の中で次の様に述べている。

『鈴木徳兵衛(義勝)の名が考忠、天明9(1789)卒。理右衛門義理の名が考山と見られ、安永3年(1774)の死である。名と没年とから両者は兄弟で、弟義勝が分れて一家をたてたと考えて差支えあるまい』