1953年(昭和28年)開館した「三重県立博物館」は2014年(平成26年)にかけて三重県総合文化センターの隣接地にリニューアルし、「三重県総合博物館」、愛称は一般公募から「MieMu」(みえむ)というそうである。津駅北西からすぐにある新興開発地にあります。

5周年記念特別展「三重の仏像~白鳳仏から円空まで~」が2019.10.5~12.1まで開催されました。普段あまり拝観する機会の少ない秘仏や本尊など、三重県内における選りすぐり仏像が展示されるということで、少し、遠距離になるが、訪れました。特に、多くの平安仏の出展、新発見の快慶仏2体の初公開など期待を越えた満足した展示会でした。

 

白洲正子著「道」には次の様に記される。

大和から伊勢へ行く道はいくつもある。吉野川にそって、尾鷲から入る「旧伊勢街道」、大和から榛原へ出、伊賀を経て行く「青山越え」、同じく榛原から、真直ぐ峠を越えて行く「本伊勢街道」、それに新しく出来たハイウェイ(阪奈国道である)を加えると、四本になる。

 

勿論、近江・湖南の栗東から甲賀、伊賀へと通じる国道一号線、湖東と伊勢を結ぶ鈴鹿山脈の八風峠越えなどの険しい街道からも経済や文化の伝播があった訳である。

そう考えてくると、三重県は遠い地方ではなく、実は都からのすぐ近い文化圏であり、近江からも近距離にあり、当然、県内には多くの優れた仏像が伝存することを再認識する。

 

時代別に紹介されており、それに従い下記に記した。白鳳時代から江戸時代にかけてすべての時代で仏像が制作されている。紹介した写真、および解説文(青字)は図録から借用した。

 

⑴白鳳・奈良時代

まず、展示場に入ると、夏目廃寺からの多数の塼仏が目を惹く。奈良博の「白鳳」展で知ったが、そうなんです三重・名張市から出土した塼仏でした。

 

夏見廃寺出土塼仏片 白鳳時代 三重県指定文化財 三重県総合博物館

最大のものは、50㎝四方を超える大きさで、その一部とみられる断片に「甲午年」と読める陽刻の文字が確認され、持統8年(649)に比定されている。

尚、夏見廃寺は文献に出てくる昌福寺に当たり、天武天皇の弟・大津皇子のために建立されたと考えられるそうだ。

 

⑵平安寺時前期

次のブースに入ると、側面壁に平安前期の彫刻群がずらり(4~5体)と並び圧力を感じます。特に、右端の最初に見る慈恩寺阿弥陀仏の反り返って見下される雰囲気は異様さを感じました。

 

    

阿弥陀如来立像 重文 像高161.9㎝ 一木造漆箔 亀山市・慈恩寺  

ヒノキの一木造で内刳は施さない。 表面は部分的に木屎漆を盛り上げて衣文などを厚手に塑形し、木心乾漆造に近い技法を見せている。 

像は重量感に満ち、はつらつとした生気あふれる力強い印象である。頬の肉付けが豊かで、切れ長の目や堅く結んだ唇が表情を引き締めている。体部も、胸を張り腹部を突き出すようにした反り身の姿勢で、側面の奥行きも豊かである。衣文の表現も巧みで、幾重にも折り重なるようにあらわされた腹部や、左手前膊にかかる衲衣の外側に見られる複雑な衣文の捌き方には、作者の実力の程がうかがえる。また、袖先など三か所に見られる渦文も、平安初期の彫刻に見られる典型的な特徴である。

過去の度重なる火災により、寺院の名称の変更や宗派の改宗などがあったが、薬師如来を阿弥陀如来に改作されながら、本尊は守り続けられたそうだ。三重を代表する仏像である。

 

十一面観音立像 重文 像高47.2㎝ 一木造素地 津市・瀬古区 

頭上面などごく一部を除いて台座蓮肉部分までをカヤの一材より彫出し、内刳は施さない。

近年に津市白山町内の集会所で発見され、長らく地元観音講の本尊として守られてきた。

形状で特筆すべきは、左足に重心をかけて右足を遊ばせ、右足の踵を高く浮かせる点である。今まさに歩き出そうとするかのような瞬間の動勢を巧みに表現する。奈良時代の金銅仏にまま見られるが、大変珍しいものといえよう。表面は素地仕上げとし、檀像に擬したいわゆる代用壇像である。

 

 

千手観音立像 重文 像高55.6㎝ 一木造漆箔 津市・常福寺 

ヒノキの一木造で、内刳を施さない。小像であるが、全体に力のこもった造形を見せており、特に側面のうねるような体の動きには迫力が感じられる。大腿部や膝下に見られる翻波式衣文も鋭く、制作年代は9世紀と考えられる。県内に残る雑密系の優れた古彫像として注目される像である。

年1度8月9日に開扉される秘仏だそうです。非常に厳しく、睨みつける表情や下半身の衣文表現は真に平安前期作である。光背で見難いが、左右の裾が張り出し、前方からの風を受けて、後方になびかせながら前傾姿勢をとり、前進しようとする。いわゆる「風動表現」がすさまじい。この表現は、2016年に開催された京博・特集陳列「丹後の仏教美術」で観仏した宮津市・金剛心院の如来立像 https://ameblo.jp/teravist/entry-12543133268.htmlや奈良・法華寺・十一面観音像が有名です。 

観仏日々帖にも詳報されていますので参照下さい。https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-187.html

 

普賢菩薩坐像 重文 像高92.1㎝ 一木造素地 多気町・普賢寺 

天衣遊離部を含めた頭体のほとんどを、木芯を込めたクスの一材から彫成する。

髻部は大きな渦を巻き、植物の葉を思わせる宝冠をつける。垂髪は耳にかかり、蕨手状に両肩に垂れる。張りのある面相部は鼻梁が太く、やや眦(まなじり)をつりあげ、口元を引き締めて厳かな表情をあらわしている。あまり例のない異国的な作風を示している。

一般に普賢菩薩は合掌して象に乗る姿にあらわされるが、本像はそれ以前の古いスタイルを示す作例として注目される。

 

⑶平安時代後期(10世紀)

 

薬師如来及び両脇侍像 重文 各一木造 古色 津市・光善寺 

通常は、1年に1度、4月第1土曜日のみのご開帳のお像だそうだ。

本像は県内に残る三尊像の最も古い作例である。中尊の薬師如来は、頭体のほとんどをヒノキの一材から彫成し(一木造)、背面から内刳を施す。また、両脚部はカヤ材でつくり、本体に寄せている。両脇侍は、いずれもヒノキの一材の一木造で内刳は施さない。

 

虚空蔵菩薩坐像 重文 像高95.1㎝ 一木造素地 伊賀市・勝因寺 

秘仏で33年に1度のご開帳が2017年に行われたばかりだそうだ。カヤ材の一木造で、内刳は施さない。表面は、現在素地を示すが、当初の状態については不明。

 

⑷平安時代後期(11、12世紀)

薬師如来坐像 重文 像高102.7㎝ 一木割剥造素地 伊勢市・明星寺 

明治初年に廃寺となった三津定泉寺の旧仏。頭体主要部をヒノキの一材で彫成。本像の像内背面に墨書銘があり、久安元年(1145)に、神宮神官を務めた当地の豪族の荒木田氏と度会氏を発願者として造像されたことが判明する。制作年が明らかな点に加えて、こうした階層の人々と仏教との関係を考える上でも貴重な作品である。

 

⑸鎌倉時代

展覧会の目玉、チラシでは「新発見の快慶仏2体初公開」にご対面です。

次のブース入口に置かれたガラスケース入りの2体です。やや照明が暗いので、細部の観察は大変だ。

ネット写真から会場風景 左:地蔵菩薩像 右:阿弥陀如来像

阿弥陀如来立像は、2009年に発見紹介され、2017.4奈良博・「快慶展」図録に展覧会未出陳快慶作品として紹介されました。また、図録には、仏像写真と足ホゾ墨書名写真が掲載され「巧匠法眼快慶」と判読しうることも記載されています。展覧会には初出展です。

この快慶作品の新出経緯については、天平会講師でお世話になっている杉崎貴英先生や大津歴博・寺島典人先生のご活躍があったそうだ。

また、本展覧会図録の特論で、「松坂市安楽寺とその仏像―快慶工房の二像を中心にー」藤田直信氏、「三重・安楽寺所蔵安阿弥様二作品のX線CTスキャン調査報告」山口隆介氏の解説が著述され、なお一層の理解を深めることができた。

また、地蔵菩薩像については、図録解説で「銘文等は確認されないが、作風から判断して鎌倉時代、それも 快慶の作と判断して間違いない」ということなので、そうなんでしょう。

 

(右)阿弥陀如来立像 像高78.2㎝ 一木割剥造 玉眼漆箔 松坂市・安楽寺 

足柄に墨書銘が記されており、一部が削られて判読が困難な状況であったが、「巧匠 法眼快慶」と解読された。像の作風も矛盾せず、端正な表情や右襟の部分にたるみをつける着衣形式など他の法眼時代の作例に近似する。

(左)地蔵菩薩立像 像高52.0㎝ 一木割剥造 玉眼彩色 松坂市・安楽寺 

残念ながら、本像に銘文等は確認されないが、作風から判断して鎌倉時代、それも快慶の作と判断して間違いない。台座に墨書銘が記され、本像がもと奈良市の眉間寺に伝来したことが判明する。 

右手を垂下して錫杖を持ち、左手に奉持する宝珠の内部には舎利が込められ、春日地蔵と呼ばれる表現であろう。宝珠の透き通った透明感はすごい。

眉間寺とは、東大寺戒壇院の末寺で廃仏毀釈により跡形もなく廃絶した寺で、佐保山南陵にあったそうだ。祀られていた諸仏像もすべて散逸してしまうが、幸い、各所で保管されていたようです。その1躯になります。

東大寺ミュージアム~特別展示・旧眉間寺伝来の仏像 2016.3.20を参照下さい。

https://ameblo.jp/teravist/entry-12543132693.html

 

 

如来坐像 重文 像高293.0㎝ 寄木造漆箔 伊賀市・新大仏寺

頭部:鎌倉時代 体部:江戸時代  

重源が東大寺復興造営のために各地設置した「別所」と呼ばれる出先機関の一つ「伊賀別所」に相当する。本像は新大仏寺の本尊で、創建時の阿弥陀如来立像の頭部に、江戸時代の胴体部を補作したものである。

当初の本像は播磨・浄土寺の中尊と同様の姿であったと考えられる。本像の頭部内刳内面等には多くの墨書銘があって、重源の指図により、快慶とその工房が制作したことがわかる。

 

⑹南北時代以降

  

両面仏(薬師如来立像・阿弥陀如来立像) 像高165.0㎝ 

町指定文化財 江戸時代 菰野町・明福寺

鏡が置かれ、後の姿も見られるように展示されていた。

もとは伊勢神宮の神宮寺であった外宮門前の常明寺の旧仏で、廃仏毀釈によって同寺が廃寺となったため、明福寺に移されたという。ヒノキと思われる一枚の厚い板状の材に、背中合わせに薬師如来と阿弥陀如来の立像を彫刻し、一体の両面仏に仕上げている。円空作品の中でも、大変珍しい姿の像である。

 この円空仏は、2012年に真菰の町・三重郡菰野町(こもの)にあるパラミタミュージアムを訪れた時、付近にある明福寺を訪問、観仏しました。

蒲生から菰野へ鈴鹿を越える~(3)菰野町・明福寺の円空仏 2012.10.10

https://ameblo.jp/teravist/entry-12543125559.htmlを参照下さい。

 

秘仏など普段はなかなか拝観が出来ない仏像を近くに拝することが出来、大満足でした。三重の仏像、文化が身近に感じられました。

この後、伊勢型紙の見学をすべく、鈴鹿市白子町を訪れました。次回報告予定。