バリア(障壁)~26
「携帯買ったんだ・・・」
私は数字の羅列を見つめながら呟いた。
一ヶ月前、彼女とお店の中だけではなく外でも連絡が取りたいという理由で、携帯電話を買った。
しかし、こう見えて私は結構おっちょこちょいなところがあって、肝心の彼女本人が携帯を持っているのか全く確認せずに購入してしまっていて、実際は宝の持ち腐れになっていた。 なぜなら彼女は持っていなかったのである。
もちろん、話がしたかったし逢いたかった。
しかし私は一体何のために東京に?
何のために大学を辞めてまで?
本当は彼女達にはレースにも来て欲しくなかったのだが、星矢のやつが私に黙って呼んだのだ。あいつはいつも私にだけ隠し事をするのだ。
なぜこうも言い切れるのかというと、携帯電話を買ったのは彼しか知らないはずなのだから。
ぼうっと考え事をしながらコースの方を見ると、ピットの隙間からレースの表彰式が見える。
私も今日のレースで表彰台の真ん中に上ってあんなふうにシャンパンを振りまくんだ、と想像した。
彼女の前でガッツポーズを見せるんだ、と。
不意に周りを見ると、私以外の出場者は皆ヘルメットやグローブを身に付け始めていた。
そろそろ時間のようなので、私も例外なく準備を始める。
ガソリンを継ぎ足し、ヘルメットを着ける。
ピット裏のパドックからマシンをコース上まで押して行かなければならない。
香織と瞳が一緒に押すのを手伝ってくれている。
星矢の方へ目を向けると、百合子ママと翔子がマシンを押しているが、星矢は押さずに後ろをついて歩いている。 いくら250ccは幾分軽いからといって女性にやらせるなんて何てやつだ。
コース上に到着すると、瞳がひっきりなしに私とマシンの写真を撮り始めている。
実のところ、写真は大の苦手でかなり照れるが、そんなことはお構い無しとばかりにパシパシとカメラに収めている。
香織はずっと私の隣にいて、カメラに向かってピースサインをしている。
本当にこれからレースなのかと思いたくなるくらい自分の周囲は緊張感が無い。
そういえば、風邪をこじらせた時に部屋の前に紙袋を置いていったのは香織ではないと言っていたのを思い出した。 それでは誰が・・・しばし思案に暮れる。
レース直前にそんなことを悠長に考えている私が一番緊張感が無いのかもしれない、と気付いて苦笑した。
「ライダーはこちらに集合して!」
最後の注意事項を伝達する為に競技委員が出場者全員を呼び出している。
「そろそろだから、行ってくるね」
「頑張ってね」
「どちらかというと、気をつけてねの方が好きかな、俺は」
「うん、気をつけてね」
香織はそう言うと、瞳と共にピットの方に戻っていった。
さて、やるか。
ようやく気持ちの切り替えが出来てゆっくりとグローブをはめた。
次回へ続く・・・
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バリア(障壁)~25
「ふうん、そうなんだ。 だから一ヶ月近くも来なかったの?」
香織は疑い深そうな眼差しを私に向けながらそう訊いてきた。
「うん、とにかく集中したくってさ・・」
「じゃ、このレースが終わったらまたいつもどおりに来る?」
「行くよ。 当たり前じゃん。 今日勝ったら祝勝会で使わせてもらおうかな」
私は、香織に背を向けた状態でバイクのボディに付いた微かな汚れを拭き取りながらそう答えた。
レースに集中したい。それは本当。 しかし、彼女たちの存在に囚われかけている自分は否定できない。
目の前に、一生に関わることと一時だけかもしれないこと。しかし、ふたつの大切なこと。
どちらを優先しなくてはいけないのかは明白なのに、つい一ヶ月前まで私は・・・
私は結局、レースへの願掛け半分と自分への戒め半分で、あれから一ヶ月間お店に通うことを自分に禁じたのだった。 しかし私は会話の最中に、こともあろうかサーキットのパドックは終日禁煙なのにも関わらず煙草に火をつけてしまっていた。
「そういえば、この前部屋まで来てくれてありがとう。 あれ、うまかったよ」
「何のこと? 克哉君のとこ私まだ行ったことないけど」
そう言うと香織はポケットから白い紙切れを出して私にそっと渡してきた。
さりげなく周囲を見渡してから見ると、そこには電話番号らしきものが書いてあった。
「今日応援してるから。 またあとでね」
彼女はそう言って私のバイクにそっと手を添えると、何事も無かったかのように家族の輪に戻った。
百合子ママや姉妹は他のバイクや機材に気をとられてこちらには気付いていない。
塚田社長と星矢はまだ何か言い合いをしている。
香織からもらった紙切れをもう一度そっと見ると、そこには「090-XXXX-XXXX 香織」と記されていた。
次回へ続く・・・
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バリア(障壁)~24
ガソリンと溶けたタイヤの匂い。
私はこのサーキット特有の香りがこの上なく好きだ。
サーキット全体がこの甘美なフェロモンに覆い尽くされていて、走る者達を魅了している。
私なんか、可能であればこの敷地内に住みたいくらいだ。
メディカルチェックとライダーミーティングを終えて、私と星矢はマシンのチェックを始めていた。
他のライダー達と共にエンジンを吹かし込み、パドック内には一部の人間にしか理解できないミュージックが響き渡っていた。
「あ、いたいた! 克哉君!」
声のする方に振り返ると、折角の程良い緊張感を吹き飛ばしてしまう光景がそこにあって、私と星矢は吹き出してしまった。
そこにはカジュアルシャツにGパンといったラフな格好をした仁井ファミリーと塚田社長がいたのだが、皆、揃いもそろって御丁寧に首から下げているパドックパスがどこぞの日本人観光客がカメラを首から下げてキョロキョロしているように映って、何とも可笑しかったのだ。 瞳なんて本当に首からカメラをぶら下げている。
「何がおかしいの?感じわる~い」
翔子が唇を尖らせながら近寄ってきた。
「いや、よく迷わずにパドックまで来れたなって思って」
「適当にぶらぶらしてたら偶然入れたの。もうレース始まるの?」
百合子ママがパンフレットを見ながらキョロキョロしている。 この姿、本当に観光客のようだ。
「あと30分程でスタートだよ、スタートするときはピットの上からの方が見やすいから覚えておいて」
星矢が神経質そうにエンジンをチェックしながら言った。
「うちの社名、英語表記じゃ何の会社だか分からないな」
「漢字とカタカナのスポンサーロゴなんて格好悪いだろ、いいんだよこれで」
社長と星矢が二人のバイクのボディに張られた『TUKADA co.ltd』のステッカーを前に何やら言い合いをしている。 私はてっきり社長の了解を経て作ったロゴだと思い込んでいたのだが、どうやらそうではないようだ。
しかし、内心私も星矢と同意見なので放っておいた。
「克哉君、最近お店に来ないね」
香織が後ろからそっと近寄ってきて耳元でそう言った。
「う・・ん、ちょっとレースに集中したかったから。 今回のレースで勝てばトップに立てるし、関係者がかなり観に来るらしくてちょっと正念場だから・・」
それは本当だった。 今日のレースは全日本選手権と併催しているのもあって、プロチームの関係者もたくさん来ている。 来年の選手権をうちのチームで走らないかと誘ってくれている首脳陣も来ているし、そのチームのメインスポンサーのお偉い方も私を観に来ていた。
私は来年、プロになれるかなれないかの瀬戸際なのだ。 次は無い。
この世界、上り調子の時にステップアップするチャンスを逃したらもう次は無いのだ。
次回へ続く・・・
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バリア(障壁)~23
一ヶ月後。
筑波の空は、瑞色の絵の具をぶちまけたような陽気に恵まれて、今日の決勝レースは少しばかりの集客アップに繋がりそうな予感がした。
キレイなキャンバスに真っ白な雲がひとつ。その雲がレースクイーンの手に持つパラソルに見えて苦笑いした。
若干、東京よりも空気が美味いだろうか。 まあ、筑波は間違い無く私の故郷と匂いは近い。 レースウィークの前日にサーキット入りしたときは、思わずおもいきり空気を吸い込んだくらいだ。
そういえば、東京へ来たばかりの頃に感じた「ゴミの匂い」は最近分からなくなっていた。
筑波もそうだが、こういう大音量でノイズを生み出すサーキットという所はどこも片田舎だったり山の中にあったりする。筑波はその中でもまだルーラル地域ではあるが、平野部に位置するので都心からもアクセスは抜群に良い。
今日はここから筑波山が良く見えるので、私が出場する午後のレースも間違い無くドライコンディションで行われるだろう。
「お、無事レースにこぎ着けた克哉君おはよう」
荷物をまとめ宿泊する下妻のホテルの部屋から出ると、隣の部屋から同時に出てきた星矢が声を掛けてきた。 朝から嫌味を言うなよと軽く怒ってから一緒にホテルを出てサーキットに向かった。
「今日は仁井さんファミリーが応援に来るらしいぞ、良かったな克哉様」
「またそう嫌味を言うなよ。 2人を応援しに来るんだろ」
「ポールポジションとブービーで離れすぎてて百合子さんたち首が疲れるかもな。克哉、お前追いついても抜くなよ」
「そんなことしてたら2位以下の奴らに抜かれちゃうだろ。ムチャクチャ言うなよ」
「そのままゴールすれば見た目だけは俺がトップだから格好つくだろ」
「格好悪いだけだよ」
内心、星矢の心中は複雑だろうなと気にかけていた。本来なら中団からすこし上、7~8番くらいは狙えるタイムを練習走行では出していたのだから。 予選中にエンジンが上手く吹け上がらなくなり不本意なグリッドに甘んじる結果になってしまった。
「後方から追い上げるのはある意味レースで一番注目浴びるからさ、頑張れよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
そんな会話をしているうちにサーキットの入口に着いた。
早めに到着したつもりだったが会場は出場予定のライダーと関係者で混み合っていた。
次回へ続く・・・
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