ペツェッティーノ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし
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1月11日(木)に開催した読書会のレポートをお届けしています。1月の読書会からは、絵本を中心に、毎回読み切りの短い作品を読んでいくことになりました。作品は毎回変わりますが、テーマとしては何かしらケアに関わるものを取り上げていきます。
第1弾として取り上げたのは『ペツェッティーノ』(好学社)です。
1月の読書会『ペツェッティーノ』レポート①はこちらをご覧ください。
1月の読書会『ペツェッティーノ』レポート②はこちらをご覧ください。
「人間はどこかに所属していたいのだと思う。絵はレゴのブロックみたいだ。子どもにとって、わかりやすい。部分品というと、わかりやすいし目を引く。ブロックのようなキャラクターたちと対照的に、海や土はパーツというよりも色が混ざったように描かれていて、不思議な雰囲気だ。島では山あり谷ありで冒険をしていて、人の一生と同じように、体験したことで気づきが得られたのだろう。最後の絵は、『つよいやつ』などいろいろなキャラクターが合体しているかのように描かれていて、いい絵だと思う」
「ペツェッティーノの行動が帰属欲求の表れという捉え方が面白い。山や海に行くところは、すぐに戻ったかのように捉えてしまうが、もしかしたら人生と同じで、ものすごく長い時間がこの間に経過しているのではないか」
「『ぼくを探しに』は『おおきな木』と同じ作者の作品なので読んだ。『ペツェッティーノ』を読んで、真逆だと思った。はじめて一人で読んだときには、よくわからなかった。10代や20代の頃は、『ぼくを探しに』のように、欠けているものを探すのに集中していた。『自分=部分品』と意識することはなかった。何か足りないとばかり考え続けていたので、『ぼくを探しに』のほうが自分事として考えられる。『スイミー』は他の魚と一緒に敵を倒す話だったが、全体と部分という考えがこの作者にあるのだろうか」
「この本のようにハッピーエンドで言い切られると、逆に不安になる。最後のページの次のページで、ペツェッティーノが明日からどう生きるのかを考えてしまう。言い切りすぎないもののほうが、着地点として好きだ。完璧な結論になっているが、ここまで割り切れない」
「全体的に心が丸くなる感じで好きだ。自我の芽生えや、『私って誰?』という自己探求が描かれている。旅するうちに、人のいろいろな部分が見えてくる。壊れたからこそ『私って誰?』がわかってくるし、強さがあるからこそ船をこいで帰ってくる。自己理解や受容を経て、新しい視点を得たことで、敵に見えていた相手が友だちに見えるようになった。ちりばめられた色は、そのキャラクターが持っている、いろいろな部分、気持ちの象徴だと思う。探すプロセスは、自分次第で、終わることなくいろいろなパーツを見つけられるものなのかもしれない。絵本だけど、というよりも絵本だから考えさせられる、象徴的な作品だ」
「ペツェッティーノの色は、他のキャラクターの中にも多く使われている。それは、ペツェッティーノが同じように強かったり賢かったりするということなのかもしれない。また、『とぶやつ』にはペツェッティーノと同じ色が多い。飛ぶということが軽さを表しているとすると、内省的に思えるペツェッティーノが、実は明るかったり軽かったりするということなのかもしれない」
レポート④につづく。