“私のえとの午年になった。今年の目標も健康に気遣いながら、勤務している小学校の児童たちの学びのより良い環境づくりに頑張りたい。2025年3月の定年後、同4月から市内の小学校の校内整備のアルバイトをしている。適度な運勤になり食事もおいしい。ところで約3年前、前立腺がんが見つかった。手術は成功したが今も定期的な検査が必要だ。そんな事情もあり、体を動かす仕事を求め今のバイトを始めた。
 もっと早く前立腺がん検診を受けていれば早期発見できたはずと悔やむ。この経験から中高年男性の前立腺がん検診の必要性を感じている。
 何はともあれ、今年も規則正しい生活に努め、小学校で児童たちから元気をもらおう。児童の笑顔が何よりの健康維持の秘訣だと思うから。”(1月14日付け中日新聞)

 愛知県豊田市のアルバイト・宇野さん(男・71)の投稿文です。規則正しい生活をする、体を動かしながら児童から元気をもらう、この生活が健康維持にかなっていることは言うまでもない。そしてその元になったのが前立腺癌になったことと言われる。ボクも前立腺癌患者であるので、このことに触れておきたい。宇野さんはもっと早く検査を受けておけば良かった、と言われる。詳しい事情は分からないので、いろいろ言えないが、癌は早期発見早期治療が肝心とはよく言われることである。ボクは最初に受けた60歳の時のPSA値が高かったので、時折検査を受けた。そして65歳の時に生検を受け、その時は異常がなかったが、70歳の時の生検で癌が見つかった。そしてロボット手術により全摘をした。その後尿漏れなどで少し辛い生活もしてきたが、2年半前に人工尿道括約筋手術を受け今に到っている。この間も、一宮友歩会会長をし続けてきた。老人会会長もしてきた。生活に大きな制約はなかった、と言えよう。これも早期発見と早期治療、規則正しい生活のおかげであったろうか。
 

 “3年半前、夫ががんで他界した。69歳だった。亡くなる前数カ月間の夫のもだえ苦しむ姿は、見ている方も大変つらかった。だから、息を引き取った時は正直ほっとした。だが、夫のおかげで人生を謳歌している今、夫へのある思いが募っている。
 がんと診断されてからの10年、苦労の連続だった。特に闘病の後半では、疲弊した私は心ない言葉をぶつけたことも。なぜ、もっと優しくできなかったのかとの後悔がにじむ。
 そして現在、夫に一番伝えたいこと。「あなたのおかげで世間知らずの私の世界が広がりました。今多くのことを楽しむことができています。いつかその時が来たら必ず迎えに来てください。それまでたくさんの新しい体験もして、お土産として持っていきます。心からありがとう」”(1月7日付け中日新聞)

 愛知県半田市の吉田さん(女・64)の投稿文です。2月6日の第3954話「いるからこそ」に通じる話の部分もあるが、この話は次の段階の話のようである。「あなたのおかげで世間知らずの私の世界が広がりました」という文はどう理解すればいいのだろうか。生前のあなたがいろいろ教えてくれたのか、あなたが亡くなっていろいろ体験して世界が広がったのか。少し理解に苦しむが、後者と理解すると、ボクは知人の女性を思い出す。その女性は、お手伝いさんがいるようないいところの奥さんです。ところが60数歳でご主人を亡くされる。吉田さんと同じである。すると生活が一変したようです。商売は止める、世間にも出なければならない。やっているうちにどんどん世界は広がる。もともと能力はあるのですから、いろいろな役が回ってくる。趣味の世界も広がる。そして今まさに「多くのことを楽しむことができています」という状態になっている。早くご主人を亡くされた結果、と言ってもいいでしょう。彼女の話を聞いていると、人生全く分からない、ということをつくづく感じます。彼女はボクが勝てない、と思っている数少ない女性の1人です。
 

 “2026年は、古希でいよいよ本格的に高齢者の仲間入りをする。そこで新年の抱負として、少し肩の力を抜き、あえて日々を「のんき」に生きることを目指したいと思う。今まで周囲の人や家族に迷惑をかけまいと、肩肘を張って生きてきたように思う。いつも将来への不安や、過去の後悔に引きずられていた。
 目標ののんきとは、決して怠けるのでなく、無責任な生き方をするわけでもない。のんきさの根元にある無理をせず、深刻にならず、ありのままでいる。これらを意識し、何かあっても「まぁいいか」という気持ちでいられるようになればと思う。「今」という時間を味わい、楽しみ、心を軽くし、笑顔を忘れないよう努めていく。日々の小さな喜びを感じることができる一年にしたい。”(1月4日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の玉川さん(男・69)の投稿文です。肩肘を張って生きてきたので、古希を迎えこれからは「のんき」に生きていこう、と思われた玉川さんである。のんきという言葉に、ボクも少し驚いた。でも読んでみると、怠けることではないと分かった。心を軽くして生きていこう、と言うのである。そうであろう。ボクでもストレスのたまるような生き方はもうごめんである。この歳になってストレスは最大の敵である。病の元でもある。気持ちを楽に、できることは何でもする、これがボクの思うところである。でも一宮友歩会や老人会会長をしているとそうとばかり言えないことがある。だからよりストレスを貯めないやり方が必要である。これは我を強めないことであろう。「まぁいいか」である。これを玉川さんは説明してくれたのである。万歳である。
 

 “以前から交通ボランティアとして、地元の小学生たちの登下校を見守っている。未来を担う児童たちと接することで元気が湧くとともに、児童たちとある高齢女性との温かな交流に目を細める日々だ。
 児童たちの通学路沿いに、3階建ての高齢者施設がある。登校時、その2階の窓際から入所している高齢女性が顔を出す。児童たちは、その女性を見かけると、手を振ったり、黄色の旗を振ったり。女性もそれらに応えて笑顔で手を振り返す。その光景に思わずほっこりする。
 2024年、1人の女子児童が女性に手を振ったのがきっかけ。こんなつながりが生まれたのを耳にして児童たちの安全を見届ける思いを新たにした。これからも児童たちの見守りを継続できたら幸いに思う。”(1月1日付け中日新聞)

 愛知県岩倉市の牧野さん(男・78)の投稿文です。児童の登下校時に起きた出来事である。高齢者施設の前で、児童と入所者が手を振り合う。良い光景である。それは1人の児童の行為から始まったとある。入所者には1人でも嬉しかったのであろう。そして嬉しいことは広まる。牧野さんはそんな児童らの登下校の見守りをしておられる。そんな光景に牧野さんもほっこりされている。誰もがほっこりされると思う。牧野さんにはより励みとなっているようである。
 ボクも老人会で、年に10数回であるが、児童の登下校見守りをしている。子供らと接する良い機会である。ボクはまだ続けられると思っているが、老人会役員にはもう難しい人が多い。来年度からどうするか、新しい役員名簿を見て検討しなければと思っている。
 

 “父の数十年分の「3年日記」が手元にある。それを読むのが、今の私の習慣だ。現在、94歳の父は施設で過ごし、何もかも忘れている。だが日記には父の家族への愛情がつまっていた。
 父は元教諭という職業柄か、何でも書き留める習慣があり、本棚に何冊もの日記が並んでいる。約5年前に父が入所した後、父を深く知りたくなり、思わず日記を手に取った。角張った文字はきちょうめんな性格がにじみ出ている。話題は町内のごみ出しから世界的な時事問題まで幅広い。とりわけ家族について詳細かつ頻繁につづってある。旅行の出来事、うれしかったこと、困ったこと、孫が成長する喜び。そのどれもから家族への思いが、ひしひしと伝わってきた。
 日記を読み返すたびに、心の中で父に伝える。「大丈夫だよ。お父さんとの思い出はちゃんと覚えているよ」”(12月30日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の会社員・三科さん(女・61)の投稿文です。父親の3年日記を読む娘さんの話である。日記は家族が読むことを想定して書いてない。読まれたことを当人が知れば怒るであろうか。でもその父親は施設に入って、そしてもう何も分からない状態である。そこで娘さんは読み始めた。三科さんは読んで、父親の愛を知り、父が生きている間により感謝の気持ちが高まったようで良かった。
 さて逆の場合もあろう。家族に対する不満が書かれていたら、どうだろうか。反省することもあろうが、怒りが燃えることもあろう。この話は一概に良いとも言えない。ボクも3年日記を書いている。家族が読むことなど想定していない。その時の気持ちのまま書いている。不満も書いてある。ボクは亡くなったら、そのまま処分して欲しいと思っている。
 

 “介護ができるということは相手が生きていてくれるということだ。今年6月に夫を亡くし、そう思う。不整脈が悪化して心臓のカテーテル手術を受けてから急に体力が落ちた夫は、家の中でも私がトイレの前まで連れて行くなど日常生活の助けが必要になった。週2回、デイケアに通うなど福祉の力も借りて頑張ったが、インフルエンザから肺炎となって病院へ。複数の病院に計半年間入院した。私は必ずわが家へ連れて戻ると約束したのに、帰れたのは、魂が旅立った体だけだった。
 自宅で夫の世話をしていた間は、「若いうちからもっと節制してくれていたら」「食べる量を抑えていれば」などと恨めしくも思った。介護する相手がいる幸せを、もっと大切にすれば良かったと思う。”(12月29日付け中日新聞)

 愛知県碧南市の主婦・山下さん(79)の投稿文です。続いて夫婦の話である。今度はご主人が亡くなったのである。生きておられる時は、介護に大分苦労されたようである。つい愚痴も出た。でも亡くなってみると、いてもらうだけでもよかった、と思えてくる。多分これは多くの人が感じることではなかろうか。亡くなって夫婦が揃っているありがたさが分かるのである。「亡くなって知る親の恩」、親ばかりでなく、夫婦も同じなのである。相手がいるありがたさ、亡くなってから知っても遅いのである。残念ながらこれが人間である。こういう実例を多く知って、一緒におられることに感謝し、その幸せを大切にして欲しいものである。この「話・話」 もそんな気持ちで題材を選んでいる。ボクが真っ先にそれを覚えないでは、それこそこの「話・話」 を書く価値がない、宝の持ち腐れである。良い時も悪い時も本当に妻に感謝である。それが試されるのはこれからであろう。気まま書「2人揃っているからこその老後です」。

 

 “ひょんなことから、私たちの結婚生活は何年になるかしらと、夫と話が弾んだ。「60年?」。いつの間にか60年も経っていた。あっという間の60年。いろいろあったけれど楽しかったり嬉しかったりのことしか頭に浮かんでこない。「辛いことってあった?」と夫に聞いてみても「どうだかなあ、あまり辛いことってなかったんじゃない」との返事。お互いに年を重ねて物忘れ状態なのかもしれないが、平凡な60年を過ごしたように思う。2人とも持病はしっかりあるけれど、自分の足で歩けて食事も美味しく頂けて、時々は2人で旅行もできて、幸せな老後だとつくづく思っている。
 「ダイヤモンド婚まで2人元気というのは珍しいことなんだよ。おめでとう」と、1人暮らしの友達が祝ってくれた。運動を兼ねて近くの公園に行くと、多くの子どもたちがワイワイ遊んでいる。暖かな日には、幾組もの老夫婦がゆっくりと散歩を楽しんでいる。池には渡り鳥、ベンチに座る私たちの足元には鳩の群れ・・・。この穏やかな日が、いつまで続くか分からないけれど、今のこの幸せに感謝して、大切に暮らしていこうと気づかせてくれたダイヤモンド婚となった。”(12月28日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・上野さん(81)の投稿文です。ダイヤモンド婚は結婚75年を言う時もあるようだが、一般には60年のようである。上野さんはその60年を迎えられた。めでたいことである。結婚60年を2人で迎えられるのは珍しいことと友達から言われたとある。寿命が長くなったと言っても、2人とも揃うとなると、かなり少なくなるのではあるまいか。ボクの周りを見てもなかなか見当たらない。そして2人の会話を読んでみると辛いこともあまり見当たらないようである。何と恵まれた夫婦生活であったろうか。当然2人の努力はあったと思うが、羨ましい限りである。
 さてボクら夫婦はどうだろうか。2020年に金婚式を迎え、もう6年経つ。後4年、どうなるのだろう。無事迎えたいものである。
 

 “一宮市の真清田神社で25日、年末恒例のすす払いがあった。神職と奉仕団体「日供講」の氏子ら約20人が本殿を掃除。1年の感謝を込めて境内を清め、年越しに備えた。
 拝殿に集まった白の法被姿の氏子たちは掃除道具とともにおはらいを受けた。拝殿の床に敷かれたカーペットや畳を手際良く巻き取り、掃除を開始。床はぞうきんがけして丁寧に磨き上げた。長い柄のついたはたきや竹を使ってはりや軒下を払うと、黒ずんだほこりがどっさりと落ちていた。
 参加した日供講の一員で同市千秋町の春日井スミ子さん(88)は「たまっていたほこりがきれいに取れて、身も心もすっきりした。来年も最高の1年にしたい」と話した。”(12月26日付け中日新聞)

 記事からです。年末になると、寺院の恒例清掃がよく新聞記事になっている。真清田神社でもそういう行事があるとは思っていたが、「日供講」と言う団体がしているとは知らなかった。そしてボクの村の人が参加していることも知らなかった。この春日井さんは、まさしくボクの村の人で、ボクのやっているサロンにも毎回参加してくれている。この記事で、彼女と話すネタができた。今度詳しく聞いてみよう。もっといろいろなことを知ることができるだろう。身近な記事はいろいろな発展に繋がる、嬉しいことである。
 

 “定年で現役を退いた頃からバラの魅力に取りつかれ、18年にわたり栽培している。3年ほど前のことだ。近くに住む80代後半とおぼしき男性が、わが家の庭に植えてあるバラの前を通りかかり「あなたはこれを咲かせることで本当に社会貢献されていますよ」と声をかけてくれた。
 どういう意味か知りたくて聞くと「不思議な魅力がある。このバラを見て心が穏やかになったり、優しい気持ちになったりする人がいるし、嫌なことを忘れる人もいるでしょう」と。「そんな人が一人でもいるとうれしいですが」と返すと、男性は右手を挙げて「私もその一人です」と笑って去っていった。頑張って栽培を続けようと思った。”(12月26日付け中日新聞)

 岐阜県関市の後藤さん(男・78)の投稿文です。好きなバラを栽培していて「社会貢献されている」と言われれば驚くでしょう。でも考えてみれば、当たり前とも言えます。綺麗に咲いた花を見て気持ちが安らぐ人は多いでしょう。それが他人の庭であっても嬉しいものです。後藤さんはそのことを指摘されたのです。ボクのまわりでは庭までは見られなくても、畑に花を栽培している家は多いです。と言うより、畑を持っている人はほとんどがどこかで花を栽培しています。ボクもそうです。これも田畑に囲まれた良さでしょう。
 そしてボクは案山子を道路脇に立てています。年に10回近く衣替えをします。通りがかりの人に「楽しみにしています」と言ってくださる人も多いです。これも社会貢献しているでしょうか。
 

 “来年はうま年です。それも60年に―度の丙午。かつて丙午年に生まれた女性は「気性が激しい」との迷信が広まり、1966(昭和41)年の丙午に出産を控える家庭が増えました。そして私は67年1月生まれですが、多くの66年生まれの人たちと同学年です。しかも私も旧暦でみると、丙午年生まれに当たるのです。
 確かに小中学校の児童生徒の数は他の学年と比べて少なめで学級数も1学級少なかったです。私は今でも、丙午年生まれの同級生たちと交流がありますが、皆、心優しく思いやりのある女性ばかりです。迷信は真実ではないです。現在、妊娠中または出産を考えている人は、迷信なんて気にしなくてよいと思います。”(12月23日付け中日新聞)

 三重県東員町のパート・三林さん(女・58)の投稿文です。調べてみると『1666年の丙午生まれだという「八百屋お七」が、ほれた男に会いたい一心で放火事件を起こして火あぶりの刑に処されると、「丙午生まれの女性は気性が激しいので夫の命を縮める」などといわれるようになりました』とありました。八百屋お七とその後の女性と何の関係があるのでしょう。これを知れば全くの言いがかり、迷信と知るでしょう。そして60年前の昭和41年は出生数が前年比25%減であったという。これは為政者やマスコミに何か思惑があったとさえ思えてきます。今年はどうなるのでしょう。ただでさえ出生数が減っています。こんな影響で減ったりしたらそれこそ大事です。
 ボクは昭和20年生まれです。終戦の年でそのころとしては一番に少数です。少数故のデメリットがあったと思いますが、メリットも多かったと思っています。是非メリットを訴えてほしいものだ、と思っています。