“先日、奈良県明日香村の石舞台古墳と同県吉野町の吉野千本桜を巡る日帰りバスツアーに参加した。1人でバスツアーを利用したのは初めて。運転免許を返納した今、旅行を楽しむには最適な方法だと感じた。
石舞台は、巨石30個を積んだ石室古墳。実物を間近に見て「すごい」の一言だった。古代のロマンに浸った。吉野千本桜は既に花吹雪だったが、それはそれで風情があった。平日のツアーで高齢者が多く、添乗員さんも、歩くのが大変そうな参加者を気遣う様子がうかがえた。私にも声をかけてくれ、記念写真を撮ってもらった。昼食も地域の特産品の割子弁当でおいしかった。
鉄道や路線バスを乗り継いで行くには大変な場所でも、こんなツアーを活用すれば今後も行けそうだ。”(5月23日付け中日新聞)
名古屋市の高井さん(男・72)の投稿文です。1人でバスツアーを利用したのは初めて、と言われるが、2人以上ならあったのでしょうか? 人の生活は様々です。ドライブや電車旅が好きな人はあまりバスツアーは利用しないでしょう。ボクは結構若い時から利用しています。50代初めに始めて行ったツアーが意外に楽しかったので、その時以来利用が始まっています。ボクは車が苦手ですので、ほとんどドライブ旅行はしません。もちろん50代は現役で、それ程にはいけなかったのですが、60代からどんどん利用しました。そして以前は妻と一緒でしたが、数年前からは1人参加が多くなりました。というのは、貴方には付き合いきれません、と言われてしまったのです。ここ数年は、老人会の旅行などいろいろ含めれば年間50日くらいバスで出かけています。6月は4回5日、7月は5回6日を計画しています。旅は良いものです、出かけられる時に出かける、高齢者には大切なことです。いつできなくなるか、分かりません。
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“1日に10人と出会い、会話することを目標にしている。いろんな人たちとの交流を通し元気をもらい、生きがいと楽しさを見いだしている。例えば日課の地元の喫茶店でのモーニング。常連4、5人と世間話のほか、プロ野球や政治経済などの話題で盛り上がる。別の喫茶店に行けば、また違う話が聞けて新鮮だ。そして現役の頃にお世話になった取引先に足を運ぶと、昔のよもやま話を耳にすることができる。さらに午後の習慣のウオーキングで巡り合う人との会話も忘れない。このように過ごした後、話した人数を数えてノルマを達成するとほくそ笑む。
友達、町内会の人々、公園で会う見知らぬ人々との対話は、実に良い刺激になる。前向きになれるこの習慣をこの先も長く続けたいと思う。”(5月20日付け中日新聞)
岐阜県多治見市の安藤さん(男・77)の投稿文です。1日10人と話す、これは無職の人にはなかなか難しいことです。日課の中に取り入れできる人は可能でしょうが、そうでない人にはかなりな努力が要ります。そして、安藤さんのように毎日モーニングへ行く人はその気になれば可能でしょう。ボクの地域はモーニングコーヒーが盛んなところです。毎日のように行く人はたくさんいます。多分グループもあるでしょう。これで5人くらいは話せるでしょう。ボクはあまり行きません。行く時は誰かと用事があって一緒に行く時がほとんどです。ボクもそのうちそういう生活が来るでしょうか?
ウォーキングの途中で話す。ボクは人と会えば必ずと言っていいほど話しかけます。これも老人会長としての役目と思っています。話しかけても挨拶だけで終わる人がほとんどです。また時間帯でしょうか、会う人も余りありません。安藤さんの目標は、ボクも心がけたいところです。でも今のボクにはほぼ毎日かなっているでしょう。それができなくなった時が課題です。
“70歳を超してから、すっかり視力が落ちた。ときおり入る温泉施設で、ボトルの文字が読めない。ボディーソープ、シャンプー、リンスの文字が、とても小さく読みづらい。全く老人への配慮がないのである。そのことを人に話したら「あんたは毛があらへんで、どっちでもええやないの」と言われてしまった。全く老人への配慮がない。
視力の落ちる老人にもいいことがある。花粉症にかかりにくいと聞いたことがある。ところが、私の場合は二重苦である。先日も車の運転中、くしゃみと鼻水に耐えきれず、コンビニでポケットティッシュ半ダースを購入した、「ふんわりやわらかしあわせ素肌」と書いてある上等の紙質のものを買った。赤信号で停車し、使おうと外袋を破って取り出すと、何か変だ。ティッシュと思っていたのは生理用品だった。よく見ると、とても小さく生理用ナプキンと書いてある。ティッシュと信じて平気な顔で支払いを済ませたが、爺さんの買い物に女性店員さんは何を思っただろう。
封を切ったから返品はできない。切ってなくても返品の勇気はない。誰かにあげるしかないが、あげられる人が思い浮かばない。自身と、身の回りの人たちの高齢化をつくづく実感した次第であった。”(5月17日付け中日新聞)
岐阜県白川町の自営業・纐纈さん(男・73)の投稿文です。全くユーモアたっぷりの投稿文に、笑えてしまいます。これは事実でしょうか、そうなら失礼なことです。温泉施設のボディーソープなどの文字、ボクもいつも閉口しています。文字が小さく、メガネも外しているので、近くまで顔を寄せいないと読めません。生理用ナプキンの話は全く笑えてきます。女性店員さんは本当にどう思われたのでしょう、聞いてみたいものです。多分何か言おうと思われたと思うが、言い出せなかった。今やいろいろなお客さんがいます。失礼なことを言ってどやされたらたまりません。そんなところでしょうか。
こんな話を纐纈さんは視力低下、高齢化と片付けられ、投稿された。多分平生でもユーモアたっぷりの人でしょう。こんな失敗でも人を楽しくさせる、機転の持ち主です。頑張って頂いて、人を楽しくさせてください。
“4月半ば、地域の親睦会主催の恒例の春祭りが開かれた。バーベキュー、ピザ、ビール、ジュースなどが振る舞われ、輪投げゲームなどがあった。また、巨大地震への心備えを養おうと、おにぎりや切り干し大根のあえ物などの災害食を提供した。
皆で食事を楽しみ、談笑する、和やかな春祭りの光景を眺め、ふと考えた。自然災害はいつ来るか分からないし、詐欺事件は頻発する。そんな問題が起きた時に助け合えるのは家族以外では何か。それは、ご近所という地域だろう。ご近所をセーフティーネットと捉えて、普段から交流して緩やかにつながっていく。
そう思い巡らすと、近所付き合いが希薄になりがちな昨今、春祭りはとても大切なものだと思えた。これからも続いてほしいと心から願う。”(5月17日付け中日新聞)
三重県松阪市の主婦・中川さん(78)の投稿文です。地域の親睦会主催で、この様に大規模な催し物がされていることに感心しました。楽しむと共に災害への備えもする。「ご近所をセーフティーネットと捉えて、普段から交流して緩やかにつながっていく」と言われます。まさにその通りです。参加者はどのくらいあるのでしょう。ほとんどが役員さんだけと言うことはないと思いますが、少し気になります。
今や町内会に入る人も少なくなっていると聞きます。町内会に入れば会費も要りますし、役員も回ってきます。個人の生活も豊かになり、今さら地元とあまり関わりたくない、と言うことでしょうか。でもその人達はこの文をどう読むのでしょう。何があっても地元の人と関わりなくやっていける、と思っているのでしょうか。地元どっぷりのボクには理解できません。
“自宅近くの実家は代々農家で、高さが1間(約1、8メートル)ほどの大きな仏壇がある。幼い頃、父は毎日のようにその仏壇の前で正座しやや頭を下げてお経を唱えていた。「羯諦、 波羅羯諦・・・」という響きが「かいてぇ、腹かいてぇ」と聞こえ、妙におかしくて今でも忘れられない。
後年、写経に親しむようになり、あれは般若心経の一節だと知った。私の家に仏壇はないが、当時を思い出し般若心経を唱えることがある。そんな中、般若心経は亡き人のためというより、今を生きる者が苦しみから離れて、幸せへ向かうための教えなのだと感じるようになった。一日一日を大切に明るく元気に過ごすこと。それが、今の私にとっての読経である。父とは少し違う形で、仏教と向き合っている気がする。”(5月15日付け中日新聞)
愛知県一宮市の後藤さん(男・78)の投稿文です。状況は結構違いますが、ボクも同じような立場にあります。ボクの家にも1間の仏壇があります。ボクの家では父でなく、母が毎朝毎晩お経を上げていました。そして般若心経でなく、正信偈です。少し調べてみると、『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものでお経ではないとあります。親鸞聖人の主著の『教行信証』の一部で、お釈迦さまの説かれた一切経を圧縮して仏教の真髄を明らかにされたもの、とあります。でも一般には簡単にお経と言っているでしょう。
そして数年前、ボクもほぼ毎日読経をしていました。ここ忘れています。この投稿文からまた復活しなければと思っています。無心とは言えないが、1人になる時間です。声をあげることもいいことです。日課に組み入れたい、と改めて思いました。
“私たちの自治会には、1週間に2回、「もやせるごみ」を出す日がある。その日は、朝から少し雨が降っていて「ちょっとイヤだなあ」と思いながら家を出た。ごみ袋を3個、軽トラックに載せて、少し離れた収集所に向かった。私の知らない若い女の人がいたので「おはようございます」と挨拶をした。
1個のごみ袋を持って、所定の場所に置いた。残りの2個を取りに軽トラヘ戻った時、びっくりした。その若い女の人が、残りのごみ袋を両手で持ち、運んでくれていた。あまりにも急なことで、何も言葉が出ず、少し後に思わず両手を合わせて「ありがとう」と何度も言った。その女の人が、尊い人に見え、涙が出てきた。私は年のせいで、背中が丸くなり、腰も曲がってきたので、助けてくださる人が多くなってきた。世の中には、親切な人が大勢いるものだなあと思った。
自分を振り返ってみると、人の助けをしたことがあるだろうか? 自分のことを中心に考えることが多い。人の助けをすることは、とても勇気がいることだ。朝から心が「ほっこり」する出来事だった。家への帰り道のハンドルを持つ手が軽くなった。”(5月12日付け中日新聞)
三重県鈴鹿市の主婦・伊藤さん(77)の投稿文です。居合わせた人が、自分のゴミまで運んでくれた。朝からほっこりする嬉しいことであった、と伊藤さんの投稿文である。頼みもしないのに、気を使ってくれたのである。高齢者への思いやりであろう。それ以外には考えられない。
歳を取ると嘆くことは多い。いろいろなことができなくなる。しかし嘆くことばかりではない。社会は高齢者に結構優しくなった。健康や趣味の教室など高齢者向けのメニューが結構用意されている。その気になれば利用できるのである。ボクもいくつか出かけているが、気になるのは男性が少ないことである。本当は男性こそ利用すべきと思うが、何が災いなっているのだろうか。
“不便益とは、不便だからこそ得られるよさのことです。身近な不便益について紹介します。私は普段、中学校まで徒歩で通学しています。毎朝家を出るときに「自転車の人はいいな」と思います。なぜなら、自転車の場合は体操服袋や水筒などをかごに入れることができるからです。それに徒歩より速いです。
しかし徒歩通学にもいいことがあります。それは体力がつくことです。家から学校まで20分ほどかかるので、毎日かぱんを背負って歩くと自然に体力がつきます。最近はどこに行くにも、車や自転車で行くことが増えてきました。しかし徒歩のいいところを見つけることで、考え方が変わってくるかもしれません。”(5月12に付け中日新聞)
愛知県蟹江町の中学生・小菅さん(女・13)の投稿文です。不便益、こんな言葉があることは知らなかっ た。不便だから益がある、中学生に教えられた。しかし、内容は良く理解できる。これはボクがよく言っていることでもある。いろいろなものが発達する。文化や物に頼った分、体や頭を使わなくても済む。楽になる、余裕もできる。でも使わなくなった体や頭はその分衰えるのである。今までできなかったことやもっと高度なことに使えば、それは発達や成長に繋がる。体を酷使していたのなら、それは健康にも良い。これができている間は良い。しかし、発達で衰えた分を補えなかったら、本当の衰えになってしまう。ボクには発達が必要以上になってきている気がする。
“「これから出発です。もうすぐ会えるね」。同級生のK君からLINE(ライン)をもらったのが午前7時43分。愛知県新城市内のホテルに午後3時集合で、旧鳳来町(現新城市)にかつてあった中学校の同級会が開かれる日だった。彼は東京都練馬区からの参加だ。
同級会はこの半年前に開いたばかりだった。この年齢では、日ごろは健康でも直前に具合が悪くなる場合もある。だから年1回だった開催をもっと増やすことにして、幹事のT君、N君の奮闘で実現。首都圏や名古屋、岡崎などから参加の返事をくれた15人全員が集まり、満開の桜の下で再会を喜び合った。宴会や合唱を楽しみ、1人1人スピーチをして気が付けば日付が変わる直前。次回は秋。それまで皆、元気でいよう!”(5月9日付け中日新聞)
愛知県新城市の主婦・岡田さん(83)の投稿文です。同窓会の開催間隔の話である。高齢になって明日どうなるか分からない体、1年1回では少ないと、半年毎にされたという。いろいろな仕方があるものだと知らされた。ボクは小、中、大学と同窓会の世話人(代表)をしている。平成18年、60歳の年に、それまでは数年間隔だった中学の同窓会を毎年にした。定年を機会に、いつ会えなくなるかもしれないことを思っての提案である。ほとんどの人が小学中学同じであるのだが、そうでない一部の人のために小学は隔年とした。その小学も数年前から毎年とした。そして大学はここ10年ばかりに隔年であった。大学は昨年からボクが世話人となったが、この機会に毎年とした。こんなボクだからか、半年毎という話に驚かされた。この上はそんなこともあるのか、ボクも頭にいれておかなくては、と思った。どうするかは皆の気持ちである。皆がそうしようと言えばする気はある。観察していよう、興味は尽きない。
“歩行中に足や腰の痛みやしびれに襲われる間欠性跛行の治療をこの1年ほど受けている。私の場合、5分歩くと1回座って休憩することが必要だ。しかし、休みさえすればまた歩ける。そんな生活の中で、街には座れる場所が少ないということに気付かされた。
つえを使ったり、一定間隔で休んだりすれば歩ける人がいる。そうした人たちにとって、数少ないお助けスポットが、バス停のベンチなのだ。そこを、バス待ちではなく、休憩に利用する人たちが私以外にもいることを、自分がこの状態になって初めて知った。歩くことに自信がなくても安心して外出できるように、街なかに休憩用のベンチを増やすことが、さらに高齢化が進む社会には欠かせないと実感している。”(5月9日付け中日新聞)
名古屋市の田中さん(女・68)の投稿文です。高齢化社会である。今まであまり意識してなかったことも、意外な面があることも知る。この話もそれであろう。バス停のベンチである。バス停のベンチと言えば、バスを利用する人がバスが来るまで座って待つためのベンチである。散歩する人のためとは設置者も思っていない。ところがそんな人に大いに役立っているのである。これが優しい社会であろう。
ところがボクの感覚では町中のベンチは少なくなっている気がする。ボクが利用するバス停ではバンチがなくなった。多分壊れて、新たなものを設置するのではなく取り外してしまったのであろう。デパートなどではどうだろう。通るのに邪魔、休憩する場所ではないと少なくなっている気がする。ボクの近くの遊歩道にはベンチが設置された。ボクはこんなところにベンチが必要かと思っていたが、意外に利用者は多そうである。気配りと、そしていろいろな人の意見を聞く、これ優しい社会作りに必要かと思う。
“去年から飲食店の接客スタッフとして働いていて、仕事にも慣れて役立つ喜びをかみしめている。そしてついに先輩になる時が来た。そんな中、ふと手に取った本に記載されていたある言葉に強く心を打たれた。それは、仕事において新人は「ホウレンソウ」、先輩は「おひたし」が必要だということ。ホウレンソウは報告・連絡・相談、おひたしは怒らない・否定しない・助ける・指示することを、それぞれ略してまとめたもの。ホウレンソウは知っていたが、おひたしは初耳だった。確かに新人が報告や相談をしてきて、怒らずに方法を指示して、時には助け舟を出せると「良い先輩」だと思う。
新たに加わるスタッフにも私と同じく楽しく働いてもらいたい。だから、おひたしの精神を心がけたい。”(5月2日付け中日新聞)
名古屋市の会社員・佐橋さん(女・26)の投稿文です。「おひたし」、ボクは初めて聞く言葉です、知りませんでした。怒らない・否定しない・助ける・指示する。後輩にはありがたい教えです。つい逆になるものです。怒る、否定するは結構多いでしょう。今となってはかなり無縁のことであるが、ボクの昔はどうだったろう。自分で走るだけであまり指導しなかった気がする。赤面の至りである。自分の走る姿が参考になっていたらまずは良しだが、どうだったろうか。
走るのは今も同じ気がする。自分で走り回り進めてしまう。どちらかと言うと、ついてこい、と言う姿勢である。今の若い人には向かないだろうな。老人会など同じ世代の人の集まりだからできている、そんな気がする。