“介護ができるということは相手が生きていてくれるということだ。今年6月に夫を亡くし、そう思う。不整脈が悪化して心臓のカテーテル手術を受けてから急に体力が落ちた夫は、家の中でも私がトイレの前まで連れて行くなど日常生活の助けが必要になった。週2回、デイケアに通うなど福祉の力も借りて頑張ったが、インフルエンザから肺炎となって病院へ。複数の病院に計半年間入院した。私は必ずわが家へ連れて戻ると約束したのに、帰れたのは、魂が旅立った体だけだった。
 自宅で夫の世話をしていた間は、「若いうちからもっと節制してくれていたら」「食べる量を抑えていれば」などと恨めしくも思った。介護する相手がいる幸せを、もっと大切にすれば良かったと思う。”(12月29日付け中日新聞)

 愛知県碧南市の主婦・山下さん(79)の投稿文です。続いて夫婦の話である。今度はご主人が亡くなったのである。生きておられる時は、介護に大分苦労されたようである。つい愚痴も出た。でも亡くなってみると、いてもらうだけでもよかった、と思えてくる。多分これは多くの人が感じることではなかろうか。亡くなって夫婦が揃っているありがたさが分かるのである。「亡くなって知る親の恩」、親ばかりでなく、夫婦も同じなのである。相手がいるありがたさ、亡くなってから知っても遅いのである。残念ながらこれが人間である。こういう実例を多く知って、一緒におられることに感謝し、その幸せを大切にして欲しいものである。この「話・話」 もそんな気持ちで題材を選んでいる。ボクが真っ先にそれを覚えないでは、それこそこの「話・話」 を書く価値がない、宝の持ち腐れである。良い時も悪い時も本当に妻に感謝である。それが試されるのはこれからであろう。気まま書「2人揃っているからこその老後です」。