“「学校は生きがい。無事に卒業したいから元気でいたいの」。鈴木静枝さん(87)は言う。春から一宮市の県立夜間中学「いちのみや中学校」に通っている。日中はカラオケ講師として働いた後、夜間中学へ。帰宅後も午前3時ごろまで勉強。あたかも受験生のような生活だ。「覚えるのも早いけど、忘れるのも早い。80を過ぎればわかるよ」。戦後の混乱期、家業の農業が忙しく満足に学校に通えなかった。今、存分に学べる幸せをかみしめている。
「静枝さん、がんばってね!」。同じ校舎を使う一宮高校の生徒たちから声をかけられるそう。底抜けに明るい笑顔ですっかり人気者だ。クラスには不登校を経て再び学校に通う決断をした子、最高齢の静枝さんに勇気づけられて入学を決めた生徒もいる。「ばあちゃんも役に立ってよかった。何事も経験。みんな今いい顔してる」。長い人生、何歳になっても新しい一歩を踏み出せる。静枝さんが一番よく知っている。”(8月20日付け中日新聞)
「モーニング」と言う記事欄からです。87歳で中学生、またまた少ない例の人生です。戦後の混乱期、家業の農業が忙しく満足に学校に通えなかった、と言われる。そういう人は多かったと思う。この文だけではよくは分からないが、今でもカラオケの講師と言われることからも、活動的な人生を歩まれたと思う。それが今中学入学である。卒業できなかったことが、心残りであったのだろう。今は中学に通うだけの余裕がある。普通は余裕があっても今さら中学などは思わないであろう。気力、熱意がないとできない。それがあるだけでも凄いと思う。そしていろいろな人の注目の的である。鈴木さんの存在価値は大きい。尊敬したくなる老後である。87歳、ボクにはまだ先である。80歳を過ぎたらいろいろ言ってもいいと思っていたが、もう5年は今の行動を続けないと何も言えない。寿命は伸びた。
“26年前、70歳で他界した母は短歌と川柳をたしなんでいた。若い頃の私はそれらの魅力が分からずにいたが、年を重ねることへの不安が募るようになった65歳を超えた頃から短歌と川柳に取り組むようになった。
私が2歳の頃、母はある病で数カ月入院し、同室の方から短歌を教えてもらい入院中のつらさをしのいだそうだ。そんな母は私が中学生になった頃、短歌の手ほどきをしようとしたが私は断った。また母は65歳ぐらいの頃、詠んだ川柳について感想を求めてきたものの、当時の私は忙しくおざなりにしていた。
今更ながら現在、川柳と短歌の面白さに目覚め、母への罪滅ぼしも兼ね、新聞の川柳や歌会始などへ応募する日々。これは母の形なき遺産かも。そう捉えて母に感謝している。”(8月19日付け中日新聞)
愛知県岡崎市の主婦・村井さん(70)の投稿文です。村井さんはいつから川柳と短歌を始められたのであろうか、この文からは少し分からない。でも、お母さんの遺産として、お母さんが楽しんでおられた川柳と短歌を始められた。そして新聞の川柳や歌会始などへの応募など楽しんでおられる。お母さんの遺産、罪滅ぼしと言われるが、ボクはお母さんのお導きと言いたい。川柳や短歌を楽しんでおられるお母さんの姿を見てこられた。この姿が身に染みついている。それが何かのきっかけで目覚められたのであろう。
ボクの母親は無類の仏教信者であった。ボクが勤務するように毎日いろいろな寺院へ、法話を聴きに行っていた。ああいう老後もいいものだと思った。退職後、檀那寺の檀家総代を11年務めた。これは村の役目であった。その後あるきっかけで浄土真宗の丹羽郡十八日講の会員になった。これは自分の意思である。仏教にあまり関心があったわけではないだけに、これは母の導きと思っている。
“先日、全国でも類を見ない山車の上で人形浄瑠璃を上演する「知立の山車文楽とからくり」を保存する会の公演が愛知県知立市内で催され、太夫として参加した。初めての一人語りで公演後は高揚感に包まれた。
約400年の歴史を持つ「知立まつり」の目玉となる山車文楽は、人形遣い、太夫、三味線の三業一体で演じるもので、5月の祭りでは雨の影響で途中で中止に。そのためか、公演では大勢の人が来場した。練習してきた「腹から声を出す」などの成果を生かし、三味線に導かれながら人形の心情を表現していった。
こうして公演は無事終了。できなかったことに挑戦し、その努力が結実した後の達成感はたまらない。こういったワクワクとドキドキの刺激は、今後も私の活力となるだろう。”(8月16日付け中日新聞)
愛知県知立市の会社員・ 橋本さん(女・49)の投稿文です。展示物ながら知立の山車は見たことがある。その山車に乗って太夫を務める。あの高い上で、腹から声を出す。最初はドキドキされたかもしれないが、勢いついてしまえばもうそれまでである。公演後の高揚感は凄いものであろう。できなかったことに挑戦し、とあるが橋本さんはどんなきっかけでこの太夫を務められたのであろうか。この体験は、今後も私の活力となるだろう、と言われるとおり大きく生きるであろう。機会を見つけて何でも挑戦してみるものである。振り返ってみれば、ボクは大きなことは言えないが、結構してきた気がする。それは一宮第九をうたう会の会長から始まった気がする。
“真夏の尾瀬は小さな生きものや草花にあふれ、春とは全く違う姿だった。日光は熱いが、風は涼しい。山々に囲まれた広大な湿原には、木道が果てしなく続く。体全体で雄大な自然を感じ、家族で感動を共有した。
8年前、夫と水芭蕉を目当てに初めて尾瀬に赴き、いつか再び訪れようと誓った。あれから3人の子を授かった。1歳の次女には生まれつき筋力が弱い疾患があり、尾瀬の夢は潰えたと思った。しかし、夫が次女を背負子に乗せて荷物と一緒に運ぶ、ことを決意。小―の長女の夏休みに、不安と期待を抱えて家族全員で尾瀬の地に立った。
初日は山小屋に宿泊。翌日は早朝から尾瀬ケ原を回った。背負子の心地よい揺れで、すやすやと眠る次女。そんな次女の体重も含め、夫の荷物の総重量は20キロを超え、私も10キロ以上のザックを担いだ。すれ違うたくさんの人たちから労いの言葉をもらった。帰路は険しい山道を登るが、4歳の長男も最後まで自力で歩きぬいた。家族で深い達成感を味わい、夢を叶えることができた。
障害児と生きる家族の歩む道は、決して平坦ではない。しかし、汗をかきながら大地を踏みしめ、進み続けるからこそ、その先で見られる景色は格別に美しいのだ。私たち家族は、これからも前を向いて歩み続ける。”(8月16日付け中日新聞)
愛知県みよし市の公認心理師・有働さん(女・36)の投稿文です。「障害児と生きる家族の歩む道は、決して平坦ではない」、これは確かであろう。でも障害者も持つ家族の頑張りの話はよく聞く。ボクの身内に幼い頃から障害を持つ人はいない。だから本当の苦労は分からない。それだけにこうした話には感動を持つ。
家族で尾瀬に行く夢を持った夫婦が、障害の子を持ったことで一度はあきらめた。が、夢を果たそうと、ご主人が背負子に子を載せて夢を果たされた。何という熱意であろうか。家族の絆が薄れていく時代である。でも障害などの問題を抱える家族は、家族が一致団結しないと進んでいけない。そこに家族の本当の良さを見いだす。ボクらがみるものはそうしたものの一部である。豊かであっても家族がバラバラでよりどころも分からない人達と、どちらがいいかと問われても、一言では答えられない。誰もが置かれた環境の中で最善を尽くしたい。
“20年ほど前に定年退職した後、自由な時間を有効活用しようと絵手紙を描くことにし試しに自作の絵手紙を兄弟、友人、知人に送ってみた。すると「面白い」などの評価をもらい絵手紙が本格的な趣味になった。
絵手紙を作るようになると、スーパーに並ぶ商品の図柄や配色に興味を持ったり、新聞やチラシの絵や文への関心が増したりした。これらを参考に描いた作品はいつしか500枚超え。われながら驚きだ。そんな中、3年前から通う地元の介護のデイサービス(通所介護)施設の厚意で私の作品が飾られるように。それを機に、施設スタッフと話が弾むようになったのは思わぬ収穫だった。
今では施設にどの作品を展示してもらおうかと思案の日々。そんな充足感をもたらした絵手紙に感謝だ。”(8月3日付け中日新聞)
愛知県一宮市の岩村さん(男・86)の投稿文です。岩村さんは、退職して絵手紙を始められ20年と言われ、作品も500枚を超えたと言われる。3年前から近くのデイサービス施設に飾られている。ボクの気まま書は年数や枚数は大きく及ばないが、流れはほぼ同じである。先輩がいて嬉しい話である。
ボクのホームページの随想https://terasan.dousetsu.com/zu145.htmlを読んで頂くと、ボクの流れが書いたある。ボクは令和3年10月から始め、今年8月で155枚になる。そして今年4月からママン’sカフェで展示して貰っている。何か行動した時、それが何かに繋がり嬉しい発展になる、その見本のような気持ちである。これからボクはどこまで続けられるか、岩村さんの話を知って楽しみは更に増えた。
“還暦の時の同窓会で会ったのをきっかけに、幼稚園と小、中学校時代を共に過ごした男女4人ずつの8人で月に1、2回、喫茶店のモーニングや、昼食を楽しむ食事会を開いている。とても楽しいひとときだ。
メンバーに大型トラックを運転していたプロドライバーがいるので、以前は年に1度、レンタカーであちこちドライブ旅行に出ていた。20年続いたが年齢には勝てず、80歳を機にお茶と食事の会に落ち着いた。最近はそれぞれの病気の話題も多くなった。だがそれ以上に、自分たちが元気だった時の思い出話で盛り上がり、会うたびに笑いが絶えない。子どもの頃からのつきあいっていいなぁ~と思わずにいられない。みんな、あと少し元気を保って、あと少し長生きしよう。”(8月1日付け中日新聞)
愛知県瀬戸市の主婦・波多野さん(82)の投稿文です。「幼稚園と小、中学校時代を共に過ごした男女4人ずつ」、まずこのことに驚いた。小中学はあり得ようが、幼稚園もである。波多野さんはボクと同年代である。そんな当時に幼稚園はどこにあったろうか、ボクには分からない。後に小学校の隣に保育園ができるのであるが、いつだったのだろう。気になって調べてみたら、昭和29年6月とある。ボクが小学校に入学したのは昭和27年4月である。波多野さんのところはボクのところに比べればかなりの町であったのだろう。
話は本筋から離れて始めてしまったが、幼稚園から10年以上一緒に過ごした同級生が、その後も交流を続ける。こういうことができる人は恵まれている。80歳を越え、旅行は止めになったが食事会は続いている。「子どもの頃からのつきあいっていいなぁ~と思わずにいられない」、多くはそうであろうが、そうでない人も多い。ボクは小中学の同窓会の世話役を卒業して以来している。いろいろな人を見てきた。いろいろな感じを受けてきた。人は一筋縄ではいかない。でももういろいろなわだかまりを捨て、会える人とはどんな人とも会う、大らかになっていきたいものである。
“私たち夫婦が朝食を終えて、食卓に残る湯気が静かに消えていく頃、穏やかな朝の時間がそっと始まる。まず、家庭用血圧計で2人の血圧を測り、異常がないことを確認する。そしてある大切な習慣をたしなむ。
その習慣とは毎朝、本紙の朝刊を日替わりで音読すること。ある日の朝、妻が読み上げる番で彼女の透き通った声がリビングに広がる。私は耳を澄ませる。声に出して読む言葉は、ただ目で追うよりも柔らかく心に染みこみ、政治・経済や地域の話題、くらしの作文まで2人の間に穏やかな会話を運んでくれる。音読で心を通わせていることを実感する。
派手さはないが、わが家ではなくてはならない新聞の音読。このかけがえのない朝のひとときこそ、夫婦の絆を静かに深めてくれている。”(7月29日付け中日新聞)
愛知県大府市の伊藤さん(男・75)の投稿文です。老後穏やかな夫婦の見本かと思う夫婦である。新聞を音読する、これだけでもなかなかできぬことであるが、これを夫婦が日替わりに交替して読む。読まない日は声に耳をそばだてる。頭で描くほどにこんな夫婦ってあるのだろうか、ボクの家ではとても考えられぬ。妻は暇な時は当然、何かしている時でもテレビをかけている。ボクは少し鬱陶しく思っているが、妻の楽しみ、やり方と思えば特に異論は差し挟まない。ボクはよく出かけているので、ボクがいない時妻はテレビをかけておかないと全く静音になってしまう。ボクの夫婦も仲はよし、穏やかな方と思っている。でもこれはなかなかできることではない。良い夫婦は多い。でもやり方は様々であろう。伊藤さんのようなことができる夫婦はどれだけあろうか、奇特な類いではなかろうか。
“私の趣味の一つが御菓印集めだ。御菓印とは全国の和菓子店がデザインした御朱印のようなもので、原則本店でしか手に入らないため、現地へ足を運び、少しずつ集めている。例えば、三重県には四つの御菓印がある。集め始めるまでは同県の和菓子といえば赤福餅ぐらいしか思い浮かばなかった。だが、全て集めたことで、開業当時のエピソードやこだわりの材料といった、それぞれの店や和菓子の軌跡を知った。だから、以前より和菓子を味わって食べる楽しさを感じるようになった。
和菓子は優しい味わいや繊細な造形、季節ごとに変わる商品など、多くの魅力がある。そんな和菓子だけでなく、その背景にある歴史や文化にも触れられる御菓印集め。これからもこの趣味を大切にしていこう。”(7月29日付け中日新聞)
三重県亀山市の公務員・那須さん(女・37)の投稿文です。寺社の御朱印の発展であろうが、今や到るところでこうした種類の印が作られている。そのことは感じていたが、御菓印は知らなかった。日本の代表的な和菓子が対象になっているようである。この印を通じて和菓子の背景や歴史を知る、面白い企画と思う。
あまりに印を氾濫させると、お金儲けかと思いその魅力を失う。その点御菓印は印が出せる場所を本店と絞っているようである。ボクは西国33ヵ寺の御朱印をもらったくらいで、他にはほとんどなく、興味もあまりない。蒐集趣味は人様々で、あまり何も言うつもりはない。でもいろいろな蒐集もいいが、その後の処置も考えておかねばならない。高齢者で悩んでいる人は多い。でも那須さんは若い。今から悩むことではない。これが元でどんな発展があるか、楽しんだ方がいい。
“平和の尊さを考えてもらおうと8月8、9の両日、一宮市民有志が「一宮平和のつどい」を一宮市真清田の一宮スポーツ文化センターで開く。9日には一宮市出身で、中日新聞の木原育子記者(45)を招き「戦争させない社会にー市民の声を紡ぐ新聞記者たち-」と題した講演会がある。参加無料で入場自由。
つどいは戦後80年の節目だった昨年、初めて開催し2回目。8日は午後1~5時で、午後3時からは実行委のメンバーが一宮空襲について調査した内容を発表する。9日は午前10時~午後4時で、木原記者の講演会は午後1時半から。会場では広島の高校生が原爆について描いた絵や、第2次世界大戦中の軍服や戦時中の日用品も展示する。
実行委員長の柴田伸治さん(83)は「防衛費はふくらむ一方で、戦争へと近づいているような気がする。80年続いてきた平和な時代を守るため、今の社会を考え直すきかっけにしてほしい」と話す。”(7月25日付け中日新聞)
記事からです。平和は尊いものであり、戦争はしてはならない、このことを否定する人はほとんどいないだろう。でも世界到るところで戦争である。そしてお互い正義を振りかざしている。そして日本も戦争ができる国にまっしぐらである。ここのところ勢いを増している。理屈などいくらでも付けられる。為政者は戦争ができる国になればしたくなるものである、そう心得ていた方がいい、とボクは思っている。そういうときにこの催しものは開催された。今や戦争はもちろん、戦後の惨めさも知らない人がほとんどである。そういう人に向かって戦争の悲惨さ、愚かさを叫びすぎることはない。最後は国民の声が砦である。
実行委員長の柴田伸治さんは老人会の役員仲間である。彼も地元会長を長く続けている。こうした話を彼と特にしたことはないが、何となくあうんの呼吸で理解し合っている気がしている。
“医師の指示で毎日使っている鼻洗浄器が突然壊れてしまった。購入できる場所が限られており、最寄りはある総合病院だ。ただ、そこまで行くバスは1日に数本しかない。また、運賃だけで鼻洗浄器の値段の3分の1ほどになる。私が使っている製品は1個5千円近くもする。
そんなことを友人でもある隣人男性に話すと「ええょ。行ってあげる。困った時はお互いさま」と、快く自分の車に乗せていってくれた。助かった。持病は難病指定されている病気で、10年前に大学病院で手術を受けた。朝と夕方に鼻洗浄をしないと鼻が詰まって息がしづらくなる。
私の住んでいる地域は、何かと不便なことも多いが、周りには、こうした思いやりのある友が何人かはいる。ほんまにありがとう!”(7月22日付け中日新聞)
三重県松阪市の佐波さん(男・75)の投稿文です。鼻洗浄器、ボクはこんなものがあることは全く知らなかった。生きていくためにいろいろな器具がある、それは心得ているが、どんなものがあるかまであまり知らない。ボクのまわりにそう行く器具を使っている人があまりないからだろう。使っている人は大変だろうが、でもそれで生かされている。いろいろな医療技術が発達して、その恩恵を受けている人は多い。それで長寿が達成される。感謝されていることだろう。
でもまずは自分自身の体で長寿を果たしていきたい。そい言うボクも器具に頼っている部分がある。人口尿道括約筋が埋め込まれている。これぞ知っている人は少なかろう。これで普通の生活が保たれている。そうであるからには、より健康を保って世の中の役に立っていきたい。それが恩に報いることである。