前回の続きです黄色い花

早速、上宮を目指して、宝満山登山開始ですランニングアップ

 

宝満山は、標高829m、決して低くない山ですが、県内で一番人気の山だそうですキラキラ

宝満登山が恒例となっている近辺の学校は多く、学生時代に登山したことがある方は結構いるのでは?

ウチの弟は、高校時代、しょっちゅう登らされ、キツかったことしか覚えてない絶望と言ってました爆笑あせる

 

 

宝満山登山案内から地図お借りしました~

 

竈門神社の左奥へ続く道を潮井川に沿って数分進むと走る人

 

 

道沿いに鳥居が見えます神社

 

本日はお邪魔いたします、よろしくお願いいたします照れ

8:30過ぎスタート馬

 

鳥居の先は、緑のトンネル~霧

 

 

木々と一体化しています霧

 

 

『貝島合名會社』~筑豊御三家の一つ、後の「貝島炭礦」の奉納

県内のあちこちの神社の鳥居や石灯籠に、炭礦会社の方々の名前を見かけますおねがい

 

左側は、下宮入口付近にあった

『式部稲荷社』奥院

古くはここが本宮で、元々の奥宮は中宮跡の先、羅漢道に本来の奥院があるそうです。

当山建立の玉依姫御鎮座以前からあるらしく、古くから信仰されているようですもみじ

 

 

右側には山から流れてくる

『潮井川』

昔はここで身を清めてから、山に入っていったそうですダウン

 

 

不思議なことに、水が流れてる一枚岩の色がグラデーションに色付いて綺麗虹

 

 

流れる音に、心が洗われる〜照れ

 

 

川のほとりには『祓戸神祠』

 

 

朝陽が差し込む林クローバークローバークローバー

 

 

清々しい流れ星

 

 

階段の向こうがまぶしいキラキラ

 

 

光に向かって進む…

なんだかワクワクしてきます爆  笑ラブラブ

 

 

石段きました~あせる

 

『一の鳥居』二合目

延宝7年(1679)長い戦乱で荒れ果てていた宝満山の復興に尽くした衆頭「平石坊弘有」

勧進し、三代目藩主黒田光之公が建立。

 

座主 平石坊 法印 弘有

 

 

大県主筑前大守 松平光之公(黒田光之公)

 

 

 

おや、見覚えのある狛さん爆  笑

二日市八幡宮や天拝山社の狛さんと同じ顔ラブラブ

同じく、武石政右ヱ門さんが奉納されていましたキラキラ この方は、二日市温泉「博多湯」を運営されている会社の創業者でしたびっくり

 

この回でも紹介してますが、大好きな温泉で、時々利用してますニコニコ

 

 

 

 

面白い形の根っこの向こうに、木の芽クローバー

 

 

まだまだ、石段が続きますあせる

 

 

『休堂跡』 三合目

水場に到着ダウン宝満山の美味しい水を水筒用に頂きましたニコニコ

 

 

 

付近で平安時代の瓦も発見されていることから、古来からここに休堂があって、太宰府の内山、宇美、北山方面からの登山道の合流地点であるここで皆さん一休みしていたようですおにぎり

 

今もある「北谷道」への案内板

 

 

カッコイイ大木がいっぱい爆  笑飛び出すハート

 

 

スポットライトキラキラのように木立の中に射し込む朝日

 

 

山の中がファンタジーの世界のようお願いキューン

 

 

『殺生禁断』の碑 五合目

霊山である宝満山の聖域内での殺生=狩猟を禁じた標石。

 

 

途中、ちらっとみえた景色

眼下に四王寺山、その向こうに市街地、博多湾に浮かぶ能古島船

結構登ってきてる~ほっこり

 

 

ば~ん!! 巨大二又の木上差し

 

吉田屋敷跡 六合目

「百段ガンギ」の手前付近に、宝満二十五坊の一つ、浄行坊がありました。明治維新後、山伏達は、山伏を辞めて下山をしなければなりませんでした。 「吉田」と名乗られた浄行坊の子孫は、その後、竈門神社の神官として奉仕し、最後まで山に留まって浄行坊跡=吉田屋敷で生活していたそうです。 右手に浄行坊墓所(六合目)の案内柱が立っています。

 

 

来ました~ビックリマーク宝満山名物と言われる

『百段ガンギ』

~雁木=鳥のが斜めに並んで飛ぶ様子が階段の形に見えるため、このように呼ぶ~

(ウィキペディア参照)

今までの石段と違って、整えられて綺麗に並んでいるので、ガンギと名付けたんですねキラキラ

当時の作った人や利用する人の石段に対する誇らしさも感じます照れ

江戸時代に出来たらしい石段で、数えた人が結構いて、本当に百段あるそうですびっくり

 

 

立派な笹の葉が石段脇に生えてましたクローバー

 

 

「百段ガンギ」の左右には宝満二十五坊という坊跡がたくさんあり、この辺り一帯を

『西院谷』というそうです。山伏さんたちがこの辺りにたくさん住んでいたんですねにっこり

 

 

キッツい石段~滝汗を、登りきると、左右に広がる開けた場所に出ました気づき

 

 

『閼伽の井あかのい

宝満山の神仏に奉献する清浄な水を閼伽香水と言います。 山中の灌頂や祭典・儀式などには閼伽の井より、神や丑の刻に浄泉を汲み使用されております。 般若心経を読経し、閼伽香水を供えて心願をお祈りしたら、その霊験たちどころに顕れたと言う(神聖な)霊泉であります。 宝満宮 竈神社

 

登り詰めた奥の左右に石に囲まれた水場があり、元はこちらの右側が『閼伽の井』とされてたそうですが、

 

今は左奥の石仏が祀られている方に看板があります。

 

 

 

井戸の左奥、ひらけた空間、二十五坊の

「岩本坊」「福蔵坊」跡

 

 

「閼伽の井」の前はちょっとしたお花畑合格合格合格

 

ミスジガガンボとアリンコとミゾソバの花コスモス

 

 

ミズヒキ風船

 

ミゾソバコスモスコスモスコスモス

 

ツリフネソウくるくる

 
 

蜜に夢中な働き者のクマバチコスモス
 

 

「閼伽の井」広場の右手に趣のある石造りの廃墟?

 

 

『岩窟ホテル跡』

昭和4年創業の松屋百貨店(のちのマツヤレディス)が、紀元二千六百年(1940・昭和15年)を記念して建設予定だったホテル。

 

 

未完成のまま、入口に石柱が残るのみ。

「福岡市」と見えますが、なんて書いてあるかよくわからないにやり

 

長くなったので、次回へ続きます爆笑あせる

 

今回も最後まで読んで頂いてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

 

今回は宝満山の麓の竈門神社です爆笑キラキラ

 

 

太宰府天満宮から徒歩で約30分走る人

距離は3キロくらい?と前に一度、チャレンジしてみましたが、ず~っと車通り沿いの舗装された坂道で、埃っぽくて暑くて死にそうでした💦

 

100円のコミュニティバス『まほろば』号内山線で『太宰府駅前』バス停から約10分、

天満宮近くの『宮前』バス停から約6分🚌

『内山』バス停で下ります。

こっちが楽です🌸

 

 

 

駐車場の奥の階段上に鳥居が見えてきます神社

 

 

花火宝満宮竈門神社花火

一の鳥居神社

 

今回の画像は、秋の紅葉もみじシーズンと初秋の青葉クローバーのシーズンを混ぜこぜで載せていますあせる

 

鳥居を超えると、右手に案内板

竈門山寺跡

 案内板の裏の草地に、整然と大きな礎石が並んでいます。

 古代から中世にかけて、竈門山寺~大山寺と続く宝満山山麓寺の一部であろうとのこと。最澄さんが、遣唐使船で、唐へ留学する前に立ち寄り、航海の安全を祈って、薬師仏を納めたという竈門山寺の後ではないかといわれています。

 

 

境内はこんな感じアップ

 

参道を登っていくと走る人

 

式部稲荷社

奥の院が宝満山登山口にあります🦊

 

 

途中の右手の細道奥に『喫茶杉小屋

 

 

紅葉の名所としても有名ですもみじ

 

 

鹿舎の鹿さん馬

 

 

外猫さんもいる猫しっぽ猫あたま

 

 

去年の12月中旬ごろもみじ

 

 

今年もですが、紅葉の時期が例年より遅くなってる気がしますもみじ

 

 

本殿迄の最後の階段ランニング


 

日暮れ16:30頃の時間にも関わらず

『鬼滅』人気もあってか、たくさんの人で行列が出来ていましたびっくり

 

 

今年の9月中旬 クローバー青葉の季節クローバー

 

 

スカッと青空に映える御本殿と楠の木霧

 

 

左手にはシンプルなデザインの手水舎

 

 

竈門神社

御祭神 

玉依姫命(初代神武天皇の母君) 

応神天皇(八幡神)

神功皇后(応神天皇の母君)

 

神社で頂いた略記を要約して紹介します鉛筆

 

 

由緒

 九州で一番登山者が多いとされる宝満山は、貝原益軒(福岡藩の医者で儒学者、当時のベストセラー健康指南書・養生訓の著者)の『筑前国続風土記』

”この山は、国の中央にありて いと高く 造化神秀のあつまれる所にして 神霊のとゞまります地なれはにや、筑紫の国の総鎮守と称す” と書かれています。

 

三つの名を持つ山

 宝満山は、他に御笠山 竈門山とも呼ばれてきました。

 御笠山の呼び名が最も古く、二日市方面から望む「笠」の形をした美しい姿から名付けれれたようです。 古来「笠」は神の憑代と考えられていました。

 

五条郵便局前からの御笠山

 

 竈門山という名の由来は、山の九合目にある竈門岩に由来とする説と、『筑前国続風土記』には、この山がカマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているように見えるので竈門山というと記されています。 天満宮方面から見る山の姿です。

 

国博通りからの竈門山

 

 多くの方に最も親しまれている宝満山の呼び名は、神仏習合によってこの山に鎮まります神「宝満大菩薩」とされたところから、山伏の活躍と共に宝満山の名称が広く、浸透して今日に至っています。

 

太宰府鎮護の神

 宝満山での神祭始めは、天智天皇の御代、今から1300年以上も昔、九州一円を統治する大宰府政庁が現在の都府楼跡の地に遷された時、鬼門にあたる竈門山(宝満山)に、西の都:大宰府鎮護のための神が祀られました。

 

 

 頂上の上宮が建つ巨岩の下からは皇朝銭、奈良三彩など、奈良時代から平安期の国家的な祭祀が行われたことを示す数々の品々が出土し、遣唐使派遣との密接な関係も指摘されています。 大宰府の平安祈願や、遣唐使の航海安全、外敵からの守護など、時代時代で祈られてきました。

 

玉依姫と竈門神社創建

 天武天皇2年(673)には、心蓮上人がお山に籠って修行中に玉依姫命が現れ、朝廷によって上宮が建てられたことが、竈門神社の創建となります。 それ以降、大宰府宮人の崇敬は厚く、公の祭祀が行われ『延喜式』に名神大社として記載されています。

 神社の草創と同時に下宮・内山周辺にも寺院が建てられ、この山の寺の名としては「竈門山寺」「大山寺」「有智山(うちやま)寺」等と称されてきました。

 

伝教大師

 最澄は瀬戸内海で暴風雨に遭い、難破した遣唐船の修理を待つ間、約1年間を筑紫で過ごし、延暦22年(803)この山に参籠して薬師仏4体を彫って竈門神に入唐求法、航海安全を祈りました。 

 それ以後、高僧の往来が盛んで平安時代末から鎌倉時代には、麓の北谷、南谷、内山に学問を専らにした衆徒方300坊、修行を専らにした行者方70坊の坊舎があったと伝えられ、優れた宗教文化が華開いたのでした。

 

武将の信仰

 室町幕府の成立に大きな力となった武藤資頼(むとうすけより)を初代とする小弐(しょうに)は、元寇の際に宝満山麓に有智山城を築き、竈門神社に戦勝祈願をして、現地の最高指揮官として大きな武勲をたてました。 

 戦国時代末期には、岩屋城の戦で有名な高橋紹運も宝満山に城を築き、竈門神社を守り神として武将の信仰も厚かったものの、長く続いた戦乱によって竈門神社、有智山寺は大きく疲弊していきました。

 しかし天正15年(1585) 豊臣秀吉によって宝満山に三層の高楼が建てられ、時に筑前国を領した小早川隆景は、宝満山に登拝して諸堂の再建に着工、江戸時代には、黒田藩歴代当主の信仰も厚く、堂社・什器の寄進、修復を行い、次第に復興に向かいました。

 

山伏

 次第に復興した江戸時代には、25坊の山伏達が峰入りの修行をしたり、県下に檀家を持ち

加持祈祷を行い、この頃に良縁を願っての十六まいり等、庶民の登拝も盛んになり、宝満山は信仰の山として浸透していきました。

 しかし明治になり、神仏分離により仏教的なものは全て廃止され、山伏たちは山を去り、竈門神社は、御祭神が神武天皇の御母「玉依姫」であり、九州総鎮守の由緒深き神社であったことから、当初の村社から明治28年に官幣小社に列せられました。

 

宝満山巡拝

 宝満山には、往時の歴史を偲ぶ多くの史跡があります。

 山の頂上・中腹・麓には、上宮・中宮・下宮のそれぞれ社殿があり、山伏の修行の中心であった中宮は明治以後廃絶し、今は残された礎石にその面影を残すだけになりましたが、下宮=現在の竈門神社にて、登山前に頭を垂れ、上宮で神々の恵みに感謝する人々の姿が絶えません。

 

 山中は、山伏たちが住んでいた坊跡

 

応神天皇の産湯を湧かしたといわれ、博多聖福寺の仙厓和尚の筆になる『仙龜』が彫られた三つの巨石かまど岩

 

顔を映すと老人も若い人に見えると言われ、雨請祈祷にも使われた益影の井

 

 

神仏習合時代の面影を残す岩に彫られた梵字

 

廃仏毀釈で首を落とされた羅漢さん

 

 

玉依姫命が示現された時の龍馬の跡が付いたという馬蹄石

 

 

元宝満(仏頂山)山頂の宝満山開山心蓮上人の墓など多くの史跡があります。

 

また、山伏たちが籠って修行をした七つの窟があり、玉依姫の山稜といわれる法城窟

宮本武蔵との戦いに敗れた夢想権之助が籠って修行し、杖道を体得した普池窟がよく知られています。

 

以上、『宝満宮竈門神社略記』からでしたクローバー


**次回の宝満山・竈門神社上宮編で山中の史跡案内をより詳しくお伝えします爆笑**

 

 

 

 

水鏡

本殿左脇にひっそりあります。

御神前に進む前に、水鏡に自分の顔を映し心の内面も洗い清めてお祈りすると願いが叶うという信仰があるそうですキラキラ

 

 

二礼 二拍手 一礼照れ拍手キラキラ

 

拝殿で祈願中はガラスの戸を閉められるようになっていましたびっくり

ガラス戸の模様が可愛らしいラブラブ

 

 

再会(サイカチ)の木

神功皇后が朝鮮出兵のおり、宝満山にサイカチの木を植えて、親しい人々との再会を祈念したという。 この木に向かって好きな人との再会や良縁、まだ見ぬ人との出会いを祈れば、

きっと願いが叶うと信じられています。

 

 

再会の木の前には願いが叶った人々のお礼に結んでいった「恋守り・むすび糸」

 

「サイカチの実」は再会の木の豆に模して造られ、御霊が込められている御守りですニコニコ

 

五穀神社 御祭神 豊受大神

 

 

 

上部の模様が綺麗です晴れ花火晴れ

 

 

五穀神社階段両脇の岩

 

 

愛敬の岩

目を閉じて無事に向こう側へ辿り着けば恋が叶うという恋占いの岩。 清水寺・地主神社の恋占いの岩より、距離が短いので叶いやすいかもしれませんニコニコ

 

 

招霊(オガタマ)の木
 

 

本殿左側の小高い位置にあるお社

 

 

須佐神社 御祭神 須佐之男命

 

こちらのお社も上部の模様が対比的で素敵ですお月様コインお月様

 

 

日当たりが良かったせいか、丸々したトカゲさんもいましたニコニコ

 

 

 

夢想権之助社

 宝満山で修行し、杖術(じょうじゅつ)の奥義を悟り、神道夢想流の祖となった夢想権之助が祀られています。 この権之助さん、実はすごい人でしたビックリマーク 

 

画像ウィキペディアさんからお借りしました

 

 若い頃に一度、剣豪宮本武蔵との戦いに敗れ、打倒武蔵と修行の旅の末、ここ宝満山にたどり着き、「丸木をもって水月(みぞおち)を知れ(狙え)」という神託を受け、 杖術(じょうじゅつ)に開眼。剣術を含めたあらゆる武術の技術を組み合わせて、相手の剣を封じるものでした。そして、ついに唯一武蔵と引き分けた、とも勝ったともいわれています。


 技術だけでなく相手を傷付けずに勝つという杖術は、現代も警察官や機動隊の「逮捕術」に投入され、受け継がれているそうですほっこり

 毎月稽古会が行われているそうで、一度見てみたいですおねがい

 

カフェのような明るくお洒落な授与所

天井は桜模様ガーベラ

 

 

 

可愛らしい御守りや絵馬がたくさんラブラブラブ

 

 

インパクトあるお人形びっくり

 

 

 

霧と光キラキラに満ちていましたおねがいキラキラ

 

 

神社の公式ホームページがとても分かりやすく、画像がとても綺麗なのでご参考にニコニコアップ

 

下宮で無事の登山祈願をし、上宮目指して出発です爆  笑グッ

 

次回は「宝満山・上宮」です霧

 

今回も間がかなり開いてしまったにも関らず、

最後まで読んで頂きましてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

前回の続きです照れ

 

『榎社』を出発してから、約1時間経過 17:30頃

 

 

 

新町通りの突き当り付近、天神様通りに出る手前で、警察や消防の方も一緒に

水分補給のご休憩ダウン

 

のど渇きますよねあせる

 

「天神様通り」に出ました走る人

 

今ではおみやげやさんで賑わう天満宮門前町参道は、かっての『大町旅館街』

江戸時代には『さいふまいり』の参詣者で大変賑わいました。

今も一部当時の風情を感じる通りで、タイムスリップしたみたい爆笑

 

 

太宰府駅前交差点🚥

 

背後からの夕陽と、青空にたなびく雲朱い傘の色が映えていますお願い

 

 

 

駅前で御輿車からお神輿を下ろし、再び人力で担ぎますびっくり

 

 

持ち上げて担ぐときの輿丁頭の掛け声も、雅な言葉使いで、新鮮です照れ
 
 

突然現れた平安絵巻のような行列に、皆さん興味津々ですキラキラ

 

 

門前町参道、かっての『大町旅館街』には各藩や幕府の定宿がありました。

そのうちの一つ旅館『泉屋』は、現在、太宰府天満宮御用達の御菓子処

『梅園』

幕末の志士「中岡慎太郎」も滞在した記録があるそうです目

 

『梅園』さんの前

 

 

 

『梅園』さんと言えば、青しそ風味の求肥餅『うその餅』

 

小さい頃、ときど~き買ってもらえて、

この『うそ鳥』を姉弟で取り合いっこした思い出があります星

 

ご時世にあわせてこんなデザインの鷽人形もあるみたいですクローバー

 

今のお気に入りは『宝満山』霧

とってもさっぱりした甘さの淡雪のような上品な口当たりです照れ

 

 

他にもいろいろ、素敵なお菓子がありますラブ

 

 

太宰府さんの楠を頂いて、彫られた鷽さんオカメインコ 店先で迎えてくれます黄色い花

お店の方もとても親切な方々で、歴史のことも含めていろいろ興味深いお話を聞かせて

頂けました。 本当にありがとうございました照れお願いラブラブ (今年の5月頃)

 

 

馬場休輿所

 

 

鳥居神社の手前、神域に入る前に、昔ながらの『はたき』で、お神輿のほこりとりをされていますびっくり 

 

この時に與丁(担ぎ手)は、再び草鞋を脱いで裸足になります足

 

夕陽にお神輿が輝いていますアップ

 

 

『浮殿』へ入っていきますキラキラ

 

 

浮殿の手前の大楠さんが見守ってますキラキラお願い

 

 

浮殿献饌祭

 

 

演奏前、『笙』を六角箱の中の火鉢?ヒーター?で温めているようですびっくり

リードが湿っていると音が出ないので乾燥させておく必要があるそうですビックリマーク

 

 

朱い長持から運ばれる献撰の中に、変わった形のものがありましたびっくり

潰したお米を輪っかのカタチにした、天満宮独特の神饌だそうですキラキラ

 

 

與丁(担ぎ手)さん達のお祓いの後、本殿へと向かいます花火

 

手前で雅楽を奏でていた若い神職さん達は、さっきまで着ていた狩衣を脱いで畳んで、素早く移動の準備をしていましたあせる

 

 

 

 

 

西の空に、細く立ち昇る雲と 宵の明星キラキラ

 

 

鳳凰と雲アップ

 

太鼓橋を渡りますクローバー

 

夜の本殿へ星空

 

 

還御の儀・本殿還御祭

御神輿到着星 本殿は消灯され、御神霊が戻られます。

 

 

竹の曲(たけのはやし)(県指定無形文化財指定)

 太宰府門前町六座(昔の米屋座・鋳物屋座・鍛冶屋座・染物屋座・小間物屋座・相物屋座)により連綿と受継がれ、御神幸祭に奉仕するようになったのが竹の曲の起こりです。

 前回の金掛天満宮の古川家は、この六座の米屋座でしたね照れ

 

 

 

いつもお賽銭箱が置かれている場所が舞台になっていました。


竹の曲『ささらの舞』

「ささら」・「絞め太鼓」・「横笛」の三楽器が用いられ、頭に牛の角のような冠を被った小学生くらいの男の子による、竹でつくられた『びんささら』の奏楽

 

ささら~ウィキペディアから画像お借りしました~

こんな感じの竹製のもので、動かすたびに「シャラ、シャラ」と鳴っていましたアップ

 

竹の曲『扇の舞』

地謡と掛け合いで、竹にちなんだ歌詞を謳いながら舞います。簡素ですが、天満宮の伝統と共に受継がれてきた古典芸術の品格を感じさせますキラキラ照れ

 

 

19:30頃終了、御扉が閉じられ 『おかえりなさい』照れお願い

 

 

御本殿向かって右手に置かれていたお神輿キラキラ

 

 

御御輿さんも、二日間、お疲れ様でした照れお願い

 

 

静かな夜の太宰府さん

とても素敵な儀式に参加させて頂いて、ありがとうございましたおねがいキラキラ

 

 

 

今年の縮小された規模も身近に感じられて良かったですが、本来の牛🐄さんや🐴さん、奉仕の人々が平安の京の華麗荘重の神幸の様式、衣冠(いかん)、直垂(ひたたれ)、大紋(だいもん)、狩衣(かりぎぬ)、白丁(はくちょう)など古の服装での、どんかん祭りを再び観れる日が来ることを願っていますお願いキラキラ

 

 

今回も長いこと、最後まで読んで頂いてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

次回は『宝満山・竈門神社』を案内します爆笑

 

太宰府三大祭りの一つとされる『神幸式大祭』~別名どんかん祭り

例年、秋分の日を境に、9/21~25日の5日間行われます照れ

 

康和三年(1101)大宰権帥 大江匡房おおえ まさふさにより始められたとされ、菅原道真公の御神霊を奉安した御輿が、どんかん道を通って、亡くなられるまでの2年間過ごされた配所(住まい)であった榎社(府の南館跡)まで下られ、一晩過ごし、また戻られるという、県無形文化財指定のお祭りです花火

 

今回はその『榎社』で一晩過ごされた後、戻られる際の『お上りの儀』

 

西鉄二日市駅手前の付近、電車の車窓から見える、踏切ギリギリのところに立つ鳥居の奥が、道真公の謫居(たっきょ=流罪先の住い)した跡『榎社』です。

 

 

榎社

かって大きな榎の大木があった為、榎寺と呼ばれていたそうです。

現在の地名は朱雀6丁目

大宰府政庁跡から南にのびる朱雀大路沿いに位置しています。

 

 讒訴され、都から左遷された当時、道真公は大宰員外帥(だざいいんがいそち)という、名目は権帥(ごんのそち-長官代理)でも、失脚した者の左遷ポストとして流罪された身であったため、住いの屋敷は雨漏りするほどの廃屋のようなボロ屋に幽閉され、地域の人にも道真公への支援は禁止、日々の食事にも困るような酷い処遇だったそうですガーン

 

当時、道真公が詠んだ『不出門』の一文に、当時の様子が伺えますダウン

観世音寺の梵鐘案内板

 

『都府楼は纔かに瓦色を看

   観音寺は只鐘声を聞く』

〜住まいから遠くに都府楼(大宰府政庁の門)の瓦をわずかに眺めるだけ、近くにある観音寺(現:政庁跡隣の観世音寺)の鐘の音をただ聞くのみである〜

 

 太宰府に到着するまでの道中も、何度も刺客に追われながら、心身ともに疲労困憊の日々、ましてや、幼いわが子、紅姫と隈麿を連れての過酷な旅は、どんなにか辛かったことでしょう。隈麿は、この地に到着の翌年亡くなり(近くにお墓があり)、姉の紅姫は、道真公死後のはっきりした消息はわかっていないそうです。(供養塔あり)

 

梅が枝餅 と もろ尼御前

右上の画=道真公ともろ御前(浄妙尼)

 

  太宰府の名物「梅ヶ枝餅」は、道真公を募うおばあさんの優しさから生まれたものです。 道真公が、ある時、刺客に襲われて近くの麹屋に逃げ込みました。 罪を言い渡されてやってきたものを匿まえば、自分にも咎が及ぶかもしれない中、麹屋のおばあさんは、道真公もろ臼の中に隠し、その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしました。  命の恩人ともいえるこのおばあさんは、その後もこっそり配所の館にいき、不自由な暮らしをする道真公のお世話をしたといいます。その時、麹の飯を梅の枝に添えて差し入れたものが、今に伝わる梅ヶ枝餅の始まりとされています。(諸説あり)

 

 

梅ヶ枝餅 焼きたては皮がパリパリで格別です爆  笑

 


  後におばあさんは、もろ尼御前(浄妙尼・じょうみょうに)とよばれ、人々に敬われ、道真公の配所の館跡といわれる榎社の背後にて、浄妙尼社として祀られるようになり、現在も太宰府天満宮の祭事のうちで、最も大切な祭りである「神幸式大祭」の折に、道真公の神霊(みたま)を移した神輿(みこし)が、まず浄妙尼の祠にお礼に訪れます。 

(太宰府市文化ふれあい館HPより一部抜粋)

 

 

浄妙尼社

 

 初めて訪れたとき、ここに来る直前、別の神社で会釈を交わした方と、偶然にもこちらでまた

お会いしたのがきっかけで、『神幸式大祭=どんかん祭り』と、その謂れを教えていただきました。 当時の装束に身を包んだ氏子さん達による、夜の儀式の情景が、とても雰囲気があり

地元の方が来られるくらいのちょうどいい人込み具合で、一見の価値あるとのことニコニコキラキラ

 

 時を同じくして、道真さんと在原業平の漫画『応天の門』の10巻の巻末に、『どんかん祭り』のことが書かれていましたびっくりラブラブ

 

これは行かなくちゃ!!と思いつつ、やっと今年来ることが出来ました照れアップ

 

 

 この日は、浄妙尼社の扉が開いており、祭礼の供物が供えられていましたお願い

 真向かいには『お下がりの儀』でお越しになられた際の御輿台が見えますキラキラ

 昨晩はここで、一年ぶりの再会をされたんですねおねがい

 

 道真さんと浄妙尼さんの当時の状況を思いながら、改めてお互いの真心に通じる感謝を伝えるための尊いお祭りだな~と、ジ~ンときてしまいましたお願い

 

 

浄妙尼さんの像は、白肌のふくよかなお顔おねがい

 

お上りの儀

倭舞奏上 15:00過ぎ

 倭神楽は倭舞(やまとまい)ともいわれ、安置された御神輿の前で、通常童女4名で奉納されますが、今回は縮小の為か、2名でした。 古くは、平安時代の末に大宰府へ下った惣市(そうのいち=巫女の統率者)の女性によって、今に伝えられているそうです。 

 2人とも、とっても可愛かったですラブ黄色い花黄色い花黄色い花

 

待機中の担ぎ手の若人衆  境内内はみんな裸足です足

 

出発まで宮司さん・氏子さんらもピシッと待機中キラキラ

奥に浄妙尼社が見えますキラキラ

 

出てこられました~キラキラ

 

 

出発前に『鳳凰』が取り付けられてます🐓

 

天拝秘法の儀

 

鳥居の手前の御神輿台で天拝山に向かって無音で祝詞を唱え、礼拝キラキラ

この時に担ぎ手さんたちは、草鞋を履きますクローバー

 

出発~走る人 16:30頃

 

去った後の神輿台キラキラキラキラ

 

 

ちょうど目の前を電車が通って行きました🚃 なんと、西鉄初車内で食事を楽しめる観光列車『THE RAIL KITCHEN CHIKUGO(ザ レール キッチン チクゴ)』でした。 一日数回しか通らない珍しい電車に出逢えたのもラッキー爆  笑キラキラ

 

鳥居の外で御輿車に載り替えて

 

紅い傘をさして、進みます走る人

 

 

八の字に引っ張って

 

『キーコキーコ』と木製の車輪が回転する音と
 
 
『どんかん祭り』と言われる由来となった
『ドン』という太鼓の音
『カーン』という鐘の音
が、通りに響いています♫
 
 
『どんかん祭り』の行列が通る道
 
 
道中にある『金掛天満宮』キラキラ
 
 
あちこちの道沿いで地域の方々が待機しておられますキラキラ
 
幼い子供が、「きたきた!」ってはしゃいでいると思ったら、
「え?これだけ?もう終わり?嫌だ~、嫌だ~」って叫んでました爆  笑あせる
今年はコロナのせいか、例年よりかなり規模が縮小されているようですショボーン
 
浄財を待っている方も拍手
 
 

 

 『どんかん道』沿いの各々家々の玄関口で、小さな子供さんも含めて家族揃って腰を落とし、お神輿が通り過ぎていくまで、頭を下げ、手を合わせておられる姿から、いにしえからの地域の方々の温かい純粋な心が伝わってきて、胸がいっぱいになりましたお願い
 
 通常の参拝では味わえない、神様のお神輿の横でしばらく、一緒に道中過ごせることをありがたいな~照れ とつくづく感じましたお願い
 
神牛塚 ~案内板より~
 昌永4年(901)正月、太宰府に流された菅原道真(菅公)は、延喜3年(903)2月25日に謫居
(現在の榎社)で亡くなりました。 菅公の遺言により亡骸は太宰府の地に埋葬されることに
なりました。そこで亡骸を車に乗せ、牛に引かせ太宰府のはずれまで来たところ、急に牛が
動かなくなりました。これは菅公の思し召しであろうと、その場に葬ったのが、現在の太宰府天満宮本殿の場所であると伝えられています。 そして、その帰り道、車を引いていた牛もこの場所で倒れ、息を引き取ったということです。 憐れんだ人々はそこに牛を葬り、塚を建て供養したのが『神牛塚』と伝えられています牛
 
【右の案内板】 
 野石の由来は定かではない。 江戸の後期、此処には「佐藤卯三郎」の屋敷があり、この辺りを明治の中ごろまでは天満宮門前六町の内の一つ中町と呼んでいた。 
 正式な記録としては筑前國続風土記拾遺の巻、御笠郡宰府村の項に「牛塚」に関する記述がある。 それによると 『牛塚は中町人家の前に在り。野石なり。俗に菅神の乗給し神牛の斃たるを爰に埋といふ』 この文言の通り、野石は今も此処に座り続けている。
 
【左の案内板】
神牛塚の建碑者 古川勝隆氏
 慶応元年乙丑の年、由緒正しき古川家の第七十三代目として生まれる。
大正元年から九年まで太宰府町の町長を務めた。
大正十四年乙丑の年に還暦を迎え、その記念にこの石碑を建てた。 
 
 古川家は篤志家で室町時代には、飢饉に苦しむ人々の為に私財を放出して村人の命を守った。 そのことが元で家業が立ち行かなくなり、当主は止む無く天神様におすがりした。
すると、ある夜、枕元に白髪の老人が現れ、「明日の朝、庭の梅の木を見よ」と告げ消えた。
翌朝、庭の梅の枝に袋が掛けられており、その中の金子のおかげで家業は立ち直った。
 この一説はこの地方に伝わる金掛け梅の伝説であり、この金掛け梅がある屋敷こそ、古川勝隆の生家である。
 
 
聞いたことのあるこの話………
先ほど前を通ってきた『金掛天満宮(かなかけてんまんぐう)のお話だ~ひらめき電球
 
この木々の奥に『金掛天満宮』の祠が見えます目
 
 
金掛天満宮 
御祭神 菅原道真公
 
由緒  御土御門天皇の御世 明應の年 今より500年の昔、古川家当主第五十八代に勝時という人あり。勤勉にてその財を成したが、大旱魃起こりて凶作が続き、飢餓を訴える人は、道に溢れ、餓死する人もその数知れず、勝時、私財を投げ出し、これを救い助く、しかるに古川家は家運傾き、衰退の一途を辿り、子孫困窮す。
 次代勝政、家を挙げて、庭内の天神の祠に祈念す。されば、夢中で白髪の老翁が出現し
梅の木に黄金の袋を掛け置くを告げる。 翌朝、早く起き出でて、祠に詣でれば、果たして之あり。 これより、家運再び興りて、相承け相継ぎて今にある。時の人の曰く 「積善の余応天の賜なり」と。これ、この祠を金掛天満宮と称え申し上げる所以なり。
 因に、この祠、菅公御自作の宇多上皇像を建久九年に奉祀したことを創建とする。境内には、御維新の前、都落ちの為、太宰府延寿王院に逗留せし、三条実美公がこの古川家を訪ね来て、金掛けの梅を詠じた和歌あり。(境内石碑の案内文より)
 
梅の木と石の祠拍手照れキラキラ
 

この大きな木々が立っている敷地が、かっての古川家の屋敷跡でしょうかにやり

鎌倉時代の古川家は、天満宮に関係の深い商工業者六座の一つ米屋座だったそうです。

 

小さな天満宮さんですが、良いところですキラキラ

分かりにくいですが、太宰府郵便局の駐車場の一角が入口ですニコニコ

 

かなり長くなってしまったのであせる

次回に続きますニコニコあせる

 

今回も最後まで読んで頂いて、ホントにありがとうございました照れお願いキラキラ

前回の続きですキラキラ

 

またまただいぶ間が開いてしまってすみません💦

 

来た道と別ルートから戻ります走る人

 

 

 

下りる際に、現れた丸々ふっくらしたトカゲさんクローバー

 

よくみると岩全体が動物?猫や狐の横顔に見えてきましたびっくり

トカゲさんが目で、下の方の割れ目が笑っている口元のようニコニコ

 

 

シャガの花

 

 

迷彩柄のカゴノキ

 

幹が鹿子(カゴ)=鹿の子の模様のようで命名されたようです。

 

 

これから識子さんのブログに紹介されていたお目当てのお社へ向かいます走る人

 

 

 

 

だいぶ下ったところの左側の脇道の鳥居の傍の大きな岩が目印です神社

 

よくわからなくて、何度か登ったり下りたりしました爆  笑あせる

 

 

 

階段を上ると

 

 

朝日乃森社

 

二礼 二拍手 一礼照れ拍手キラキラ

 

いくつも眷属を従えた大変強い力を持っているお稲荷さんだそうですキラキラ

 

 

更に隣奥の木の下に

朝日乃森さんが識子さんに教えてくれた

 

 

高波動が漏れているお社(1回目・去年4月末の画像)

 

 

大黒さんの像に、物凄いパワーをもったお稲荷さんが宿っているそうですキラキラ

眷属をもたない一匹オオカミタイプだそうですが、とても強い力をもっておられるとのことビックリマーク

お会いできて嬉しいです照れキラキラ

 

 

2回目・今年6月中旬にお参りしたときは、識子さんのブログにあったように、お社がかなり綺麗になっていて、更に嬉しくなりました爆笑

 

 

皆さん、にっこりニコニコラブラブ

 

 

朝日乃森さん、ありがとうございましたお願いキラキラ

 

 

奥の院登り口のトカゲさん、見送ってくれてありがとうニコニコ

 

 

穏やかな緑と鳥居の道を

 

ゆっくり下って

 

岩本社

技芸上達の神様。

萬子媛と共に都から仕えてきた尼僧が祀られているそうですキラキラ

 

 

 

 

ちゅんちゅんと鳴き声の先にスズメちゃんラブラブ

 

 

青空と青葉流れ星

 

 

下りてきました~走る人

 

玉みくじ

 

丸い木の玉を引きます音譜

 

 

昔の字で書いてあるので、この台帳と照らし合わせて読むのも楽しいですニコニコ

 

 

狛狐さん、又来ます~バイバイ爆笑

 

 

 

 

振り返って見ると鳥居の向こうから

 

 

 

 

勢いのある雲がびっくりあせる

 

 

 

仲見世側の鳥居神社

 

 

 

 

 

ぐ~んアップと伸びて ド迫力!!

狐🦊のシッポのようでした爆  笑上差し

 

 

最後まで綺麗な景色を見せてくれて、本当にありがとう~ラブ

 

 

仲見世の『油屋本店』で買ったお土産

 

『福もち』は赤福に似た栗あんタイプ、『赤間神宮』の福もちに似て美味しかったです音譜

 

 

祐徳稲荷神社の名物『稲荷ようかん』

 

筒の上部分の蓋を外してしたから押し上げ、出てきたようかんを

筒の端についている糸で、お好みのサイズに切れるようになってますひらめき電球

便利~グッ爆笑 

お腹空いていたので、即、一本丸々食べてしまいましたてへぺろ

 

 

仲見世鳥居のすぐそばにある『油屋本店』

 

元々は菜種油の販売していたことから『油屋』という店名だそうですが、その後、旅館、現在の神具一式、郷土玩具、お土産などのお店になったそうです。

 

去年の豪雨でやはり店内は浸水、商品棚まであと少しのところまで水嵩が来ていたそうですが、本当にギリギリで助かったそうです滝汗

 

平日だったせいもあってか、開いているお店も少なかった中、とても感じの良い素敵なお店の方とお話出来て良かったですクローバー これからも被害無く、活気と賑わいが仲見世に戻ってきますようにお願い

 

 

 

 

神社の向かい側、東山公園駐車場にかっこいいハーレーが停まってましたびっくり

 

 

 

 

 

公園内の鹿島社の神馬🐴

 

神さま版ハーレー自転車ですね爆笑

 

 

鹿島社から見た『祐徳稲荷神社』

 

 

去年4月末の公園のツツジ黄色い花

 

見どころ満載

一度行くと、大好きになってしまう

とっても優しい柔らかな雰囲気の

『祐徳稲荷神社』でしたお願い

 

長いこと最後まで読んで頂いて、ホントにありがとうございました照れお願いキラキラ

 

 

次回は『太宰府天満宮・神幸式・お上りの儀』を紹介しますニコニコ