またまた前回からだいぶ間が開いてしまってすみません💦

 

引き続き、御本殿から奥の院まで

 

約2.30分の道のりを進みますランニング

 

 

石壁社(せきへきしゃ)

~ウィキペディアより画像お借りしました~

 

祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人・萬子媛をお祀りしています。

 
 萬子媛は、左大臣:花山院定好公を父、関白:鷹司伸尚公の娘を母として、1625年に誕生しました。 2歳で母方の祖母である後陽成天皇の第三皇女・清子内親王の養女となったことにより、天皇の曾孫でもありました。

 

 寛文2年、37歳で直朝公にお輿入れの折、父君の花山院定好公より、屋敷内の朝廷の勅願所であった伏見稲荷から勧請された稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ 「身を以って この神霊に仕へ 宝祚(皇位)の無窮と 邦家(国家)の安泰をお祈りするように」 と諭されました。 

 

 萬子媛は、内助の功良く直朝公を助け、二人のお子様をもうけられましたが、1人は10歳で、もう一人は21歳で、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に黄檗宗の尼寺・祐徳院(祐徳稲荷神社の前身)を創立し、自ら神仏に仕えられました。

 

 齢80歳になられた宝永2年、 石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、 同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。 萬子媛ご入定の後も、 その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。 諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、 明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。

 

~神社公式ホームページより一部抜粋~

 

 

 

 

 

お賽銭箱の中に

 

アオスジアゲハの羽がびっくり

 

美しく光って見えました流れ星お願い

 

 

石壁社の鳥居神社の後ろ側に「鶴」

 

 

 

更に進みますランニング

 

 

奥にお社が見えますニコニコ

 

 

命婦社

 

 

とっても優しいお顔の狛狐さん照れ

なんだかホッとしますラブラブ

 

命婦社

 

 稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊を、お祀りしている御社である。
光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。 この事に花山院公は大変喜ばれ、厚くお礼を述べられこの白衣の一団に尋ねられた。
 

 「どこの者か?」 答えて言うには、


 「肥前の国鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者でございます。

  花山院邸の危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝い申し上げただけでございます。」
 

  公はいぶかしんでさらに尋ねられた。


 「私の屋敷などどうでもよい。どうして御所に行かないのか?(御所の火を消さないのか。)
 

 一同が恐縮して答えるには、

 

 「私達は身分が賤しく宮中に上がることは出来ません。」


 とそう言い終るや否や、跡形もなく消え去った。


花山院内大臣はこれは不思議なことだ、奇蹟だと内々に光格天皇に言上されると、天皇は命婦の官位を授ける様勅を下され、花山院内大臣自ら御前において 【命婦】 の二字を書いて下賜されたといわれる。(*1:この掛物は祐徳稲荷博物館に所蔵)


その後石壁山山中に社殿を造り、命婦大神として御奉祀され、現在に至っている。

 

命婦社の社殿は、江戸時代(享和4年)から昭和8年までの御本殿で、その後この土地に移築されたものであり彫刻が素晴らしく江戸時代の神社建築の特徴を残している。現在、佐賀県より重要文化財の指定を受けている。

 

~神社公式ホームページより~

 

 

本殿正面の彫物

 

 

杏葉紋と鳳凰

 

麒麟

 

 

 

 

空飛ぶ玄武

 

陽の光で浮き上がって見えましたびっくり

 

 

麒麟さんの目が鋭いキラキラ

 

 

さすが元御本殿アップ

 

細部に亘り、精巧、かつ迫力ある造りに見蕩れてしまいますおねがい

 

 

 

左手の階段を上りますランニング

 

 

紅葉の若葉色クローバー

 

落ち着いた海老茶色の連なる鳥居神社の下の

 

木漏れ日キラキラの中を歩いていると、穏やかな気持ちになってきます照れ

 

 

切通しの先に神社

 

 

更に続く鳥居の道神社

 

 

ここから急斜面に沿って、石段が始まります上差し

貸出用の竹の杖も置かれていましたお願い

 

 

階段入口右側の鹿島社

 

 

お社の横に龍の髭の白い小花流れ星

 

お花が咲いているのを初めて見ました爆  笑

 

 

マジですごい傾斜ですびっくりあせる

 

 

 

元々はお稲荷さんがなんとなく恐れ多いというか、怖く感じていて、以前は避けていたのですが、桜井識子の本やブログを読んでいて、だいぶ意識が変わりましたアップ

祐徳稲荷さんも紹介されていますニコニコ

 

 

 

識子さんのブロクの中にもあるように、メインの参道の右側の道は分かりにくく、あまり人が通らないのですが、参道沿いの祠の中にはちゃんとお稲荷さんがおられて、「通るだけでいい、手を合わせなくてもいい」と、言われていたそうで、是非ともお参りさせてもらいたい!となりましたビックリマーク

 

 

完全に山登りです~あせる けど最高にいい景色キラキラ

 

 

奥の院の正面に出ました爆笑

 

 

奥の院 到着~照れ

 

 

奥の院から振り返った景色キラキラ

 

最高の見晴らしです爆  笑キラキラ

 

遠くに有明海も見えます船

 

自販機もあり、冷たい飲み物も頂けましたジュース

 

ベンチに座って休んでいたら、どこからともなく

 

「にゃ~」「にゃ~」と声がびっくりラブラブ

 

 

玉垣の外側に白いニャンコラブ

 

 

内側に入ってきましたラブラブ

 

なんて綺麗なオッドアイブルーハートイエローハート

 

 

植木にダッシュで突っ込むあしあと

 

 

陽だまりでゴロンゴロンくるくる

 

 

落ち着いてリラックス~にやり

 

 

むちゃむちゃ可愛かったです恋の矢

 

出てきてくれて、感激~笑い泣き とっても嬉しかった~音譜

神さま、ニャンコに会わせてくれて、ありがとう~お願い(去年の4月末)

 

今回(今年の6月半ば)も会えるかな?と期待してきましたが、会えませんでした😢

 

 

今回は、コロコロ太ったシッポの短いトカゲが出てきてくれましたニコニコグッ

 

 

ず~っと居たくなるほど、気持ちのいいところですニコニコ

 

次回も奥の院編・その②に続きますひらめき電球

 

今回も最後まで読んで頂いてありがとうございましたお願い照れキラキラ

前回の続きですニコニコ

 

正面の御神楽殿に向かって、右手に

 

岩崎社

御祭神:岩崎大神

ご本殿の真下にある小さなお社。恋愛だけでなく、様々な縁を結んでくれる神様。

過去2度とも、知らず知らずのうちにスルーしてしまってましたガーン

次回はお参りさせて頂こうあせる

 

手前に標柱と注連縄

 

 

堂々としたゴツイ系だけど親しみを感じる吽狛犬さん

 

ご本殿への上り参道脇に立つ阿狛犬さん

 

 

狛犬さんの後ろの池にはカラフルな錦鯉

 

 

御神楽殿

昭和41年新築された鉄筋コンクリート建、総漆塗極彩色の社殿。一般参拝者の諸祈願はここで行われています。


お賽銭箱は玉屋デパートの田中丸善三郎氏奉納。

 

豪華絢爛キラッキラの内装ですキラキラ

 

 

両側に奉納された天狗面!!

ちゃんと阿吽になってますニコニコ

 

 

これからこの風鈴🎐の階段を117段上り、御本殿に向かいます走る人

 

風鈴🎐は、🦊さんや金魚、花柄など数種類あり、お願い事を書いて吊るすようになってます音譜

 

 

 

石壁山の中腹にある懸造りの御本殿は、高さ18mあり、京都清水の舞台より高いそうです上差し

 

『伏見稲荷大社』『笠間稲荷神社』とともに日本三大稲荷と称されています🦊

 

年間300万人が訪れ、九州では太宰府天満宮につぐ参拝者数びっくり

 

2015年に放映されたタイのドラマや映画の舞台となった為、コロナ前までは、たくさんの外国人参拝客が訪れていたそうです。

 

 

階段の途中に、たくさんの青々と木々

 

 

アオシギタツクローバー 葉脈がクッキリ

 

イロハモミジの種とピンクの翼果

翼果(よくか)という羽のような2枚の翼がついていて、くるくると回りながら風に飛ばされ、実(種)が遠くまで運ばれるようになっているそうです爆笑

 

 

椿の実

 

本殿まで来ました爆  笑あせる

 

 

 

 

向かい側の東山公園のツツジとのコントラストが最高ラブ

(去年の4月末)

 

天皇の孫姫様らしい雅な造りですキラキラ

 

 

御本殿

 

貞享4年(1687)創建、 肥前鹿島藩主・鍋島直朝公に嫁ぐ際に、 後陽成天皇の曾孫・花山院萬子媛が、 京都御所の花山院邸宅内・朝廷勅願所であった稲荷大明神の御分霊・神鏡を父から持たされ、 勧請されたことに由来します。

 

現在も、京都御苑内の花山院邸跡に『花山稲荷大明神』が祀られています。 元は、藤原北家・藤原忠平公(菅原道真公の政敵・時平の弟)が伏見稲荷を勧請したとされています。 江戸時代にあった2度の大火でも被災を免れたことにより、 現在も『花山さん』と呼ばれ、火除の神様として篤く信仰されているそうです。

 

御祭神

倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)

大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ=アメノウズメノミコト)

猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)

 

 

拝殿真上の天井画

 

御本殿横の装飾画

 

なんと!! 御本殿の中へ入って参拝することが出来ます爆  笑

 

 

神楽殿手前の大楠の下に

 

 

昇殿参拝のすゝめ

~案内板より~

 

~ 総漆塗ごく彩色の絢爛荘厳な御本殿に昇殿になり、 御神前間近にご参拝なされますようおすゝめいたします。 きっと深い感銘を覚えられることと存じます。 ご希望のお方は受付に申出下さい。 昇殿参拝御初穂料御一人千円也 (御守り・お供物を差し上げます) ~

 

あの御本殿内でお参りできる~爆  笑」と

早速申込み、社務所で待機。

通常のご祈願はお隣の神楽殿で行われます。 

待合室から先は、撮影不可📸✖

 

 

落ち着いたレトロな待合室で待機中に頂いた金太郎飴

 

カワイイ~ラブラブ

細かく丁寧に作られていて、食べるのが勿体ないくらいラブ

 

御神職の先導で、御本殿まで、雰囲気のある紅い絨毯張の回廊のような内階段を、ワクワクしながら延々と上っていきます走る人

足の不自由な方の為の一人用電動リフトみたいなものも端にありました合格

 

本殿内は、雅な雰囲気で本当に耀いてみえましたキラキラびっくり

格天井の格縁一枚一枚に、有田焼の絵付けの図柄が丁寧に描かれています鉛筆

中央の一段高くなった折上天井には、眼力鋭い『八方睨みの龍図』龍

両サイドには本殿内を舞うように、天女の姿流れ星

 

御神職の祝詞奏上、玉串奉奠までして頂けましたお願いキラキラ

 

 

頂いた撤下品

 

間近にご参拝させて頂けて、本当にありがたかったです照れアップ

 

次回は奥の院へ向かいますランニングラブラブ

 

今回も最後まで読んで頂いて、ありがとうございました照れお願いキラキラ

 

今回は佐賀県の有明海に面した鹿島市にある

 

日本三大稲荷の一つ

 

『祐徳稲荷神社』を紹介します。

 

今回過去2回【去年の4月末】と【今年の6月下旬】に参拝した時の写真を掲載しています。

 

 


福岡市内から車(長崎自動車道)で90分

 

近くには武雄温泉、嬉野温泉があります♨

 

 

神社入口の案内図

 

有田焼のタイルでしょうか? 色鮮やかです虹

 

案内図の下の方、外苑駐車場に駐車🚙

 

駐車場のトイレの横にある木の幹がまあるく二つに分かれていて、ハートピンクハートみたい。なんだか嬉しくなりましたニコニコ

 

 

駐車場から石壁山を背後に鎮座する

『祐徳稲荷神社』

 

 

錦波川(浜川)に架かる神橋の袂の

なんじゃもんじゃの木

ちょうど白い花が満開でした(4月末頃)

 

 

白い花ビラがいかしゅうまいのように見えましたてへぺろ

 


神橋を渡ります照れ

 

 

綺麗な川ですキラキラ


しかし昨年7月の各地に被害をもたらした豪雨で、錦波川が氾濫し

 

浸水被害のニュースを見た時には本当に心配でしたガーン

 

復旧されるまで、大変だったかとお察しします。

こうして再びお参りが叶う状態までになられて、本当に良かったあせる 嬉しい限りですお願い

 

 

花火祐徳稲荷神社花火

 

貞享4年(1687)創建、肥前鹿島藩主・鍋島直朝公に嫁がれた後陽成天皇の曾孫・花山院萬子媛の京都御所の花山院邸宅内の朝廷勅願所であった稲荷大明神の御分霊を勧請されたことに由来します。

 

 

鳥居神社をくぐります照れ

 

 

堂々たる立派な狛狐さん🦊

 

 

 

カッコイイですキラキラ

 

 

左手に手水舎

柱は全て3度内向きに傾いていて、昔ながらの耐震構造だそうですグッほっこり

 

 

綺麗に飾られていますキラキラ

どこのお宮さんも工夫をこらして飾って下さっていて、真心が伝わってきて笑顔になります照れ

 

 

見上げると、龍さんの凛々しい姿が龍

危うく、見落とすところでした~💦

 

 

真っ直ぐ進む先に『藤棚』と、

外観を損ねないよう配慮されたミラーガラス張『エレベーター』 

 

本殿は山の斜面にあり、階段を上らなければなりませんが、高齢者や車椅子の方でも

楽に参拝できるようになっています。 

 

1日利用券300円で何度でも乗降りでき、パワーストーンお守りおみくじ付ですニコニコキラキラ

 

お隣の休憩所も、新しく広々としていて眺望良好、ゆっくりできそうですラブラブ

 

 

4月末のこの時期は、藤の花が満開で、優美な雰囲気でしたキラキラ

 

 

美しく、壮麗な装飾に圧倒されますおねがいキラキラ

 

楼門前の橋下に 金色の錦鯉キラキラ

 

 

楼門

日光東照宮の陽明門を模したもので、陽明門の修復職人・小西美術工藝社により完成。

 

 

細部に亘って、繊細な装飾がなされています黄色い花

扁額は秩父宮妃のご真筆鉛筆

 

 

有田焼の随神

 

門の内側には

鍋島藩家紋『杏葉紋』

随神と同じく 有田焼 岩尾對山窯作

 

門をくぐった先、左側が『受付』・『社務所』 

右側に『神楽殿』

 

右手に『本殿』『奥の院』へ続く階段入口

 

 

 

 

風鈴🎐の音色が風になびいて、涼し気~

(今年の6月末)

 

 

左馬のうまくいく絵馬

 

『左馬』とは馬の字を左右逆に書いたもので、 「舞う(まう)」に通じ、舞は祝宴の席に催されることから、縁起が良いとされてきました。 また、左馬は 「右に並ぶ者がいないほど、傑出した才能」 を表し、 更には馬は左につまずかない事から 「長い人生つまずくことなく過ごせる という意味をもつと言われています。

 

加えて普通は、人が馬を引くものですが、左馬は逆に馬が人を引き寄せる様子を表し、千客万来、 家業繁栄につながるとされたり、 「馬」という字の下の部分がお金を入れる巾着袋の形に似ているため、財運に恵まれる と言われたりしています。

 

これらの言い伝えにより、 左馬の文字は古来より人々の篤い信仰を集めてきました。

 

この左馬のうまくいく絵馬は、 この左馬の伝説に因み、さらに、当社にて家内安全、福徳円満、商売繫盛、開運招福 など、万事運気向上の祈願を行っています。 一年の無事と運気向上をもたらすように身近においてお祈りください。   

~祐徳稲荷神社・案内板より~

 

 

 

なで馬

下り参道の両側に2体の馬の石像があります。 病気を治したり良くしたい部分を撫でると、願いが叶うという言い伝えがあります。

 

左側・赤絵馬:牝馬

 

 

右側・黒絵馬:牡馬

 

パッツン前髪がキュートですニコニコドキドキ

 

 

よく見ると、牡馬の背中に

 

 

オオシオカラトンボびっくり
 

 

クルクル頭を傾けて、全然逃げません爆  笑上差し 

こんな近くで見たの、子どもの時以来ですアップ

 

むちゃむちゃ、目が合ってた気がしますキラキラ

左馬の前のオオシオカラトンボさん、

なんか縁起がイイ~音譜ラブ

写真撮らせてくれてありがとう~お願いラブラブ

 

 

厄落とし絵馬

こんな面白い絵馬もありました上差し爆  笑

 

今回はここまで、次回も『祐徳稲荷神社・本殿』へと続きますニコニコ

 

今回も最後まで読んで頂いて、誠にありがとうございました照れお願いキラキラ

下関の旅、最終回ですクローバー

 

安徳天皇御陵前からの風景

 

 

安徳天皇阿弥陀寺陵の前の道を

 

突き当りの塀にそって右へ曲がります走る人

 

塀の向こうの三角屋根は『日清講和記念館』です。

 

 

 

 

花火春帆楼花火

 

阿弥陀寺町にある割烹旅館で、ふく料理公許第一号店『日清講和条約』が締結された場所です。

 

幕末の頃、大分県中津奥平藩の御殿医だった藤野玄洋が、隣接していた豪商:伊藤家の招きにより、医院を開業したことに始まります。御殿医を辞して、専門の眼科の他、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、希望する患者には妻・みちが手料理を供しました。

 

伊藤家は、下関藩赤間関の大年寄で大名に宿舎を提供する東の本陣でした。当時の当主:伊藤九三は、幕末の攘夷志士らを様々な側面から支援していた人物で、伊藤博文、坂本龍馬、高杉晋作らとも交流がありました。

 

 

明治の神仏分離令により、廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、『月波楼医院』を開業、玄洋没後、伊藤博文のススメにより、妻みちは医院を改装、割烹旅館『春帆楼』が誕生しました。 屋号は 《春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様》から、伊藤博文が名付けました

 

 

ふぐの歴史

 

縄文時代から食べられていた河豚ですが、長い間どこに毒があるのか知られていませんでした。秀吉の時代から、河豚禁食令は引き継がれていましたが、ふぐ鍋の美味しさは庶民の間でも知られており、ふぐ中毒で亡くなる人は後を絶ちません。 江戸の頃、「当時のたまにしか当たらない鉄砲=てっぽう」にひっかけて、『てっぽう鍋』と称して、当時の独身男性の度胸試しになっていたそうです。 禁令は表向きで、ここ下関では、庶民は昔から食していたようです。

 

明治20年(1887)初代総理大臣:伊藤博文が、『春帆楼』に滞在した際、大しけが続き、提供する魚がなく、困り果てた女将ミチが、打ち首覚悟で御膳に禁令だったふぐを出しました。 青年時代から、志士たちと共に、ふぐを食し味を知っていた博文は、これを賞賛し、翌年には、禁令を解かせ、『春帆楼』 はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。 

 

****お店HP・ウィキペディアより****

 

お店HPから画像お借りしました
 

今でも、美しい関門海峡の景色を眼下に、美味しいふく料理を頂けます。

いつか泊まってみたいな~ニコニコ

 

 

 

 

花火日清講和記念館花火

 

『春帆楼』の敷地内に外交史を後世に伝える為、昭和12年に建てられました。 実際の会議が行われたのは当時の『春帆楼』の2階大広間。 なぜこの場所が選ばれたのかというと、当時の下関から、多くの軍艦が遼東半島を目指して関門海峡を通過していく様子は、清国に脅威を与え、交渉に有利に働くことを意図したといわれています。

 

 

会議の部屋を当時のまま再現し、講和会議に関する貴重な資料も展示しています。 調度品などは浜離宮から下賜されたものだそうです。

 

 

 

当時全権を務めた伊藤博文・陸奥宗光の胸像

 

 

花火李鴻章道花火

清国全権大使『李鴻章』は3回目の講和会議後、講和に反対する自由党の青年から狙撃され、重傷を負いましたが一命をとりとめました。

回復後、危難を避ける為、宿舎『引接寺』会場『春帆楼』の往復にこの道を使用したことから、『李鴻章道』と呼ばれるようになったそうです。

 

****ウィキペディア・案内板より****

 

 

オレンジ色の『李鴻章道』を進みます走る人

 

 

柵のすぐ下は『本陣 伊藤邸跡』

 

 

 

 

先ほど少し紹介した『本陣 伊藤邸跡』

伊藤家は、鎌倉時代から続く屈指の名家。広大な邸宅は大名の本陣宿としてでなく、オランダ宿としても名高く、歴代当主は進取の気性に富んでいました。 当主・伊藤九三の支援の元、慶応2.3年の頃、坂本龍馬は伊藤家を拠点として活動、妻・お龍さんと共に、伊藤家の一室「自然堂」を借り受け、京都近江屋で暗殺される最後の京都行き直前まで、ここで仲睦まじく暮らしていました。

 

 

お龍さん 凛とされた美しい方ですねおねがいキラキラ

 

 

一般によくみかける龍馬さんとは、違った表情が見て取れる珍しい写真です目  右隣が当時の御当主・九三さんです。

 

 

阿弥陀寺町と書いて、『あみだいじちょう』と読みます上差し

 

 

トベラ

 

ハリイ?

 

道中の草花が綺麗ですキラキラニコニコ

 

 

 

花火藤原義江記念館花火

若き日の藤原義江(下関市の「藤原義江記念館」提供・画像お借りしました)

 

途中、右に上がっていく道があります。 脇道・小径はついつい、ワクワクして誘われるがまま進むと…

 

『藤原義江記念館』があります。藤原義江は、日本を代表するオペラ歌手で、現存する日本のオペラ歌劇団・藤原歌劇団の創設者です。

 

 

 

長崎のリンガー商会の代理店として、この地に住んでいた瓜生商会の支配人だった父スコットランド人ネール・ブロディ・リード琵琶芸者だった母坂田キクさんの間に生まれたのが『藤原義江』でした。 かなりのイケメンで、才能と容貌に恵まれ、波瀾万丈な人生を歩んだ藤原義江さん、実際に本人がこの地に住んだことはないようですが、ゆかりの地として記念館として利用されています。

 

階段を上ると走る人

 

 

門の上には、五線紙と♬♫♩のアーチアップ 緑に囲まれた素敵な入り口ですラブ

 

 

ちょうどお昼休みの時間のようでしたあせる 後で調べたら、事前予約が必要とのことでした、残念ぐすん

 

 

階段下のノウゼンカズラが、とってもいい感じでした照れ

 

 

大通りから見上げた『藤原義江記念館』

 

 

道の途中で出会った猫ちゃんたち黒猫しっぽ黒猫あたま

 

 

 

 

かわいかです照れラブラブ

 

花火引接寺いんじょうじ花火

清国全権大使『李鴻章』の講和会議中の宿舎だった『引接寺いんじょうじ

 

初め、色々歩き回って疲れてきてたのであまり興味はなかったんですが、案内板の写真を見てびっくりびっくり

三門の天井に立派な龍の彫物龍龍龍 これは見たい爆  笑と、気分一転、ワクワク階段を上りました走る人音譜

 

 

 

引接寺三門~案内文より~

 

浄土宗寺院。 当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったが、詳細不明。 永禄3年(1560)亀山八幡宮の麓に建立され、山号を関亀山と号す。 慶長3年(1598)当地を統括していた小早川隆景(毛利元就の三男)の遺言により菩提を弔うため、縁族の藤堂佐渡守高虎(また凄い人が出て来ましたびっくりが現在地に広大な堂宇を建立し移した。 萩藩により朝鮮通信使の客館としても整備され、のち、日清講和条約全権大使の李鴻章の宿舎として、狙撃事件とも相まって、有名になった。 

 

三門は、明和6年(1769)8月に長府藩主毛利匡満が再建したもの。

昭和20年6月29日の一帯を焼き尽くした下関空襲の際にも、三門は被災を免れ、現在も往時の様子を伝えている。

 

なんで「山門」でなく『三門』なのかキョロキョロ? 調べたところ、浄土宗では、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しているそうです。

 

 

『関亀山』の扁額

 

見上げると ド迫力の見事な龍さんびっくり

 

門の内部を二手先の組物を使い、鏡天井とする稀な例で、左甚五郎作ともいわれているそうです。

伝説によると、江戸末期、お寺の前を通りかかった通行人が次々と天井の龍に襲われ、武士が退治したしたそうです。

その時の刀傷=龍頭の上にスパッと切った跡を今も見ることができます びっくり

 

****下関ふく問屋 酒井商店さんのHPより参照****

 

 

反対側から見た龍さん

 

角度が違うとまた、眼光鋭く、めちゃめちゃカッコイイです爆  笑 一見の価値ありますキラキラ

 

 

花火下関の洋館花火

英国領事館

 

 

 

 

旧秋田商会ビル

 

 

 

日本最古の現役郵便局舎 下関南部町郵便局

 

 

海沿いのウッドデッキ 

 

 

夕暮れの唐戸市場うお座

今回全然紹介していませんが、海鮮丼、お刺身、天ぷら、練り物などなど、新鮮、美味しい、お値段優しい、お得感満載の市場ですビックリマークテイクアウトして、ウッドデッキで海を見ながら食べるのも良し、二階の食堂で食べるのも良しナイフとフォーク爆笑ナイフとフォーク

 

 

1549年ザビエル上陸記念碑

 

 

唐戸市場の駐車場一角にあるお社

 

市場の守り神様でしょうかおねがいお願いキラキラ

 

 

ふぐの提灯がカワイイお願いドキドキ

 

 

市役所前広場の『くじらのしっぽ』

 

写真の後ろ側に映っている『TAGLINE』左差しclick

歩き疲れたあとの休憩にちょうどイイ感じのカフェです。天井が高く、すっきり解放感のある空間で、一休みコーヒーリラックスできますよ~ニコニコ

 

 

見どころ満載の下関でしたおねがい音譜

 

今回も長くなりましたが

最後まで読んで頂いて、ほんとにありがとうございましたお願いお願いキラキラ

 

次回も県外続きます💦

佐賀鹿島の『祐徳稲荷神社』です神社

 

 

前回の『亀山八幡宮』から徒歩5分走る人

 

 

 

 

朱塗りの立派な屋根が見えてきます目

 

 

 

花火赤間神宮花火

 

今から800数年前、壇ノ浦の戦いで平家は敗北、御年わずか八歳(満六歳)で御祖母二位の尼(平清盛夫人時子の方)に抱かれ、入水された、第八十一代安徳天皇がお祀りされていますお願い

 

境内は結構広いですびっくり

 

 

竜宮城の入口のようキラキラ

 

 


青い空に鮮やかな朱塗りの門キラキラ

 

明るく、とても美しいですおねがい

 

 

階段を上がったところに

 

毎年干支に因んだ絵馬が飾られています🐄

 

*今回、過去複数回お参りした時々の写真を載せてます*

 

 

水天門

 

戦災で神殿以下焼失、復興まで二十年の時を経て、昭和40年の御祭神780年大祭に、龍宮造りが特徴の現在の社殿が完成しましたキラキラ

安徳天皇は波の下の都、竜宮城へ入られたといわれ、海・水の神様として仰がれています。

 

 

細部に亘る装飾が美しいですニコニコ

 

 

 

水天門の右奥の石のベンチ

 

蝶々の紋様が刻印されていました合格

 

ここに座って、海の景色を眺めて休憩するのもいいですほっこり

 

 

門をくぐります走る人

 

 

階段の先にご本殿が見えてきますニコニコ

 

 

 

手水舎の横の安徳天皇神徳記

 

幼い安徳帝と共に入水し亡くなったおばあ様二位の尼『波の下にも 都ありとは』と詠まれたように、安徳帝は龍宮に潜幸されたと信仰されています。 龍宮界はわたつみの神の都で、一切の生命体の故郷、初代神武天皇の父君『ウガヤフキアエズノミコト』大綿津見大神の娘、玉依姫と、祖父『ヒホホデノミコト(山幸彦)』ももう一人の娘、姉の豊玉姫を妃としており、皇室と深いつながりがあるとされています。

 

清浄な魂の幼い安徳帝が、当時戦乱で荒れていた国土国民を清め祓い、国の生命の再生を図る為御身を捧げて、国家未曾有の大祓をなされたことが、人知を超えた神威の顕現にほかならなかったと拝されます。かくて、龍宮界の生命浄化、再生のお力を発揚されている安徳帝の偉大な御神徳を称えて「水天皇大神」と仰がれています。

 

~境内案内板と『神徳』案内書より要約~

 

 

階段の左:母獅子

 

子獅子が押さえられています滝汗

 

右側の父獅子

 

中国大連の花崗岩を現地で彫り上げ、境内社大連神社全国氏子有志の手によって運び、平成七年十月一日赤間神宮前に奉納され、両獅子の口中の玉は、石彫の過程で仕上げており、頭から台座まで見事な出来です(案内板より)

 

 

勅額

青海波の意匠 東照宮や宇佐神宮、寛永寺など文化財の修理・施工修繕を担当している創業寛永年間の老舗小西美術工藝社製作

 

社殿前の狛犬さん

 

 

二礼 二拍手 一礼拍手ほっこりキラキラ

 

 赤間神宮へ参拝のきっかけは、桜井識子さんの本「神様、福運を招くコツはありますか?」の中で、末期がんの伯父さんが祈願をしてがんが消滅したと書かれていたことです。 読んだときに、ふと長年、がんを患っていた母の友人のことが頭に浮かび、数年前、ご祈願に初めて行きました。

 

 本に書かれている通り、事前に掛かっている病院や主治医の名前の他、尋ねられるまま、入院中、通院中、手術前か手術後か等治療の内容など、詳しく神職さんに伝えます。 ご祈願は、力強い太鼓の音から始まり、伝えた内容を盛り込んだ祝詞を読み上げて下さいました。 太鼓、笛、巫女さんの舞を目の前で奉納して頂き、初めての事で感激しきりでしたおねがい 神職の温かい言葉にも ジ~ンと来てしまいましたえーん 

 (現在、巫女舞は人員不足の為、行われていません💦)


 識子さんの本の中の一文 「私たちの神様が大好きだという気持ちや、信じ敬う心を、神様が優しく受け止めて下さるから信仰が成り立つ、と云うことをここで実感として学びました」と、正にそんな思いがしました。 

 

 その後、母の友人の御主人も、識子さんの本を読んで、一年くらい毎月門司からご祈願に通っていたら、がんは無くなり、今では体調もすっかり良くなったそうです爆  笑お願い

 

 

 

平家蟹 社殿右横のおみくじコーナー付近に展示

 

 

平家蟹伝承

 

その昔、壇ノ浦の漁師達は、平家蟹が網にかかるとその怒りと苦悶の表情に平家の怨霊を偲び、大切に取り扱って赤間神宮に奉納しました。 当時は、その蟹をお祓いして茹で、磨き、小箱に入れ記念のお土産物として参拝者に紹介していたそうです。 

 

近年では壇ノ浦近辺からほとんど姿を消してしまい、東寄り周防灘口の埴生や厚狭海岸で時折見かけられるそうです。平家蟹は壇ノ浦から遥か懐かしい都へ帰ったのではなどと言われています。(案内文より抜粋)

 

 

七盛宮

 

水天供養塔

 

 

 

芳一堂 昭和32年建立 防府市出身の彫刻家押田政夫氏作

 

子どもの頃に聞いた「耳なし芳一」の話はかなりインパクトがあり、怖かったので、恐る恐るお参りさせて頂きましたお願い ちょうど巫女さんがお掃除されていて、朝の光ほっこりも清々しく、そんなに怖くありませんでした照れ

 

すぐ左横は、平家一門のお墓:七盛塚がありましたお願い

 

 

毎年『耳なし芳一琵琶供養祭』は赤間神宮本殿内で斎行されています。 今年は神事のみだったそうです。

 

日本西門 鎮守八幡宮

 

 

大連神社・紅石稲荷神社へ続く道

 

 

左手に朽ちた一艘の木造船🚢

 

 

壇の浦漁釣船由来記

 

平家の残党は再起を窺いながら、漁業を生業とし、潮の流れの渦巻く中巧みに船を操り、一本釣を練達し、舟の中でも正座を崩さず、海底に沈んだ安徳帝と平家一門を弔ったそうです。時代とともに姿を消した最後の「倭船」を由来を含め、先祖の遺徳を称え奉納とあります。

 

大連神社 御祭神:天照皇大神 大国主大神 明治天皇 靖国神社

 

 

 

明治39年に日露戦争終戦後、満洲国の玄関口:大連市に鎮座、終戦後昭和22年に大連神社の水野宮司の手により、御神体は帰国、福岡筥崎宮に仮奉安の後、水野宮司は赤間神宮の宮司に就任し、境内に小祠を建立。 

 

現社殿は、昭和初期、熱田神宮御造営撤下御用材を拝領した石炭王:貝島太市翁が、下関長府の自邸内に、明治天皇御尊像を奉斎するために日の本神社として建立したものを、御神縁を得て、貝島家から譲渡され移築されたそうです。(案内板より)

 

扁額に『公爵・近衛文麿』の文字

 

勅使殿

 

 

安徳天皇阿弥陀寺陵

 

水天門を出て右隣に御陵があります。

 

 

赤間神宮は、元々は阿弥陀寺というお寺


 安徳帝の遺体は壇之浦に面した御裳川(みもすそがわ)で引き上げられ、1185(寿永4)年3月24日に紅石山麓の阿弥陀寺に埋葬されたと伝えられています。

 

 その後、1191(建久2)年12月14日、後鳥羽天皇が長門国(山口県)に勅して命により、安徳天皇御影堂を建立、勅願寺として崇敬されていました。

 

  阿弥陀寺・御影堂が明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で、天皇社と改称され、「赤間神宮」と改められました。 安徳天皇の陵墓が阿弥陀寺陵と呼ばれるのは江戸までの呼称を引き継いでおり、陵は明治13年に修築され宮内庁の管轄となっています。

 

 

2019年映像

特殊神事 先帝祭

 

毎年5月2日の安徳天皇御命日を皮切りに三日間行われます。

 

 安徳帝の御遺体は、中島組のいわし網に引き上げられ、阿弥陀寺に葬られました。

 

 源平合戦後、多くの平家の女官上臈たちは、赤間関在住の人々に助けられ、山の花を手折っては港に留まる船人に売り、生計を立てながら安徳帝の命日には威儀を正して礼拝を続けたものが、現在の上臈参拝に起源です。

 

 女官たちが亡くなった後も、赤間関の人々は、その遺志を継ぎ、参拝を続け、官女に警固、稚児、上臈に禿が随う行列は、平安の昔の五節舞の形に倣い、絢爛豪華な外八文字道中は壮観です。

 

***神社HPより抜粋***

 

 

 

水天門から関門海峡を眺める船

 

鳥居の向かい駐車場の先は海波

 

 

 

ピンク色に染まった関門橋

 

 

 

 

昔から今も続く、下関の人々の安徳帝と平家の人々への尊み慈しむ気持ちをたくさん感じられる『赤間神宮』でしたお願いドキドキ

 

~おまけ~

縁起もち 栗あんの赤福餅みたいで、予想外❓にとっても美味しかったです爆  笑グッ

 

今回も長いこと、最後まで読んで頂いてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

次回も引き続き「下関・唐戸周辺」を案内しますニコニコ