太宰府三大祭りの一つとされる『神幸式大祭』~別名どんかん祭り

例年、秋分の日を境に、9/21~25日の5日間行われます照れ

 

康和三年(1101)大宰権帥 大江匡房おおえ まさふさにより始められたとされ、菅原道真公の御神霊を奉安した御輿が、どんかん道を通って、亡くなられるまでの2年間過ごされた配所(住まい)であった榎社(府の南館跡)まで下られ、一晩過ごし、また戻られるという、県無形文化財指定のお祭りです花火

 

今回はその『榎社』で一晩過ごされた後、戻られる際の『お上りの儀』

 

西鉄二日市駅手前の付近、電車の車窓から見える、踏切ギリギリのところに立つ鳥居の奥が、道真公の謫居(たっきょ=流罪先の住い)した跡『榎社』です。

 

 

榎社

かって大きな榎の大木があった為、榎寺と呼ばれていたそうです。

現在の地名は朱雀6丁目

大宰府政庁跡から南にのびる朱雀大路沿いに位置しています。

 

 讒訴され、都から左遷された当時、道真公は大宰員外帥(だざいいんがいそち)という、名目は権帥(ごんのそち-長官代理)でも、失脚した者の左遷ポストとして流罪された身であったため、住いの屋敷は雨漏りするほどの廃屋のようなボロ屋に幽閉され、地域の人にも道真公への支援は禁止、日々の食事にも困るような酷い処遇だったそうですガーン

 

当時、道真公が詠んだ『不出門』の一文に、当時の様子が伺えますダウン

観世音寺の梵鐘案内板

 

『都府楼は纔かに瓦色を看

   観音寺は只鐘声を聞く』

〜住まいから遠くに都府楼(大宰府政庁の門)の瓦をわずかに眺めるだけ、近くにある観音寺(現:政庁跡隣の観世音寺)の鐘の音をただ聞くのみである〜

 

 太宰府に到着するまでの道中も、何度も刺客に追われながら、心身ともに疲労困憊の日々、ましてや、幼いわが子、紅姫と隈麿を連れての過酷な旅は、どんなにか辛かったことでしょう。隈麿は、この地に到着の翌年亡くなり(近くにお墓があり)、姉の紅姫は、道真公死後のはっきりした消息はわかっていないそうです。(供養塔あり)

 

梅が枝餅 と もろ尼御前

右上の画=道真公ともろ御前(浄妙尼)

 

  太宰府の名物「梅ヶ枝餅」は、道真公を募うおばあさんの優しさから生まれたものです。 道真公が、ある時、刺客に襲われて近くの麹屋に逃げ込みました。 罪を言い渡されてやってきたものを匿まえば、自分にも咎が及ぶかもしれない中、麹屋のおばあさんは、道真公もろ臼の中に隠し、その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしました。  命の恩人ともいえるこのおばあさんは、その後もこっそり配所の館にいき、不自由な暮らしをする道真公のお世話をしたといいます。その時、麹の飯を梅の枝に添えて差し入れたものが、今に伝わる梅ヶ枝餅の始まりとされています。(諸説あり)

 

 

梅ヶ枝餅 焼きたては皮がパリパリで格別です爆  笑

 


  後におばあさんは、もろ尼御前(浄妙尼・じょうみょうに)とよばれ、人々に敬われ、道真公の配所の館跡といわれる榎社の背後にて、浄妙尼社として祀られるようになり、現在も太宰府天満宮の祭事のうちで、最も大切な祭りである「神幸式大祭」の折に、道真公の神霊(みたま)を移した神輿(みこし)が、まず浄妙尼の祠にお礼に訪れます。 

(太宰府市文化ふれあい館HPより一部抜粋)

 

 

浄妙尼社

 

 初めて訪れたとき、ここに来る直前、別の神社で会釈を交わした方と、偶然にもこちらでまた

お会いしたのがきっかけで、『神幸式大祭=どんかん祭り』と、その謂れを教えていただきました。 当時の装束に身を包んだ氏子さん達による、夜の儀式の情景が、とても雰囲気があり

地元の方が来られるくらいのちょうどいい人込み具合で、一見の価値あるとのことニコニコキラキラ

 

 時を同じくして、道真さんと在原業平の漫画『応天の門』の10巻の巻末に、『どんかん祭り』のことが書かれていましたびっくりラブラブ

 

これは行かなくちゃ!!と思いつつ、やっと今年来ることが出来ました照れアップ

 

 

 この日は、浄妙尼社の扉が開いており、祭礼の供物が供えられていましたお願い

 真向かいには『お下がりの儀』でお越しになられた際の御輿台が見えますキラキラ

 昨晩はここで、一年ぶりの再会をされたんですねおねがい

 

 道真さんと浄妙尼さんの当時の状況を思いながら、改めてお互いの真心に通じる感謝を伝えるための尊いお祭りだな~と、ジ~ンときてしまいましたお願い

 

 

浄妙尼さんの像は、白肌のふくよかなお顔おねがい

 

お上りの儀

倭舞奏上 15:00過ぎ

 倭神楽は倭舞(やまとまい)ともいわれ、安置された御神輿の前で、通常童女4名で奉納されますが、今回は縮小の為か、2名でした。 古くは、平安時代の末に大宰府へ下った惣市(そうのいち=巫女の統率者)の女性によって、今に伝えられているそうです。 

 2人とも、とっても可愛かったですラブ黄色い花黄色い花黄色い花

 

待機中の担ぎ手の若人衆  境内内はみんな裸足です足

 

出発まで宮司さん・氏子さんらもピシッと待機中キラキラ

奥に浄妙尼社が見えますキラキラ

 

出てこられました~キラキラ

 

 

出発前に『鳳凰』が取り付けられてます🐓

 

天拝秘法の儀

 

鳥居の手前の御神輿台で天拝山に向かって無音で祝詞を唱え、礼拝キラキラ

この時に担ぎ手さんたちは、草鞋を履きますクローバー

 

出発~走る人 16:30頃

 

去った後の神輿台キラキラキラキラ

 

 

ちょうど目の前を電車が通って行きました🚃 なんと、西鉄初車内で食事を楽しめる観光列車『THE RAIL KITCHEN CHIKUGO(ザ レール キッチン チクゴ)』でした。 一日数回しか通らない珍しい電車に出逢えたのもラッキー爆  笑キラキラ

 

鳥居の外で御輿車に載り替えて

 

紅い傘をさして、進みます走る人

 

 

八の字に引っ張って

 

『キーコキーコ』と木製の車輪が回転する音と
 
 
『どんかん祭り』と言われる由来となった
『ドン』という太鼓の音
『カーン』という鐘の音
が、通りに響いています♫
 
 
『どんかん祭り』の行列が通る道
 
 
道中にある『金掛天満宮』キラキラ
 
 
あちこちの道沿いで地域の方々が待機しておられますキラキラ
 
幼い子供が、「きたきた!」ってはしゃいでいると思ったら、
「え?これだけ?もう終わり?嫌だ~、嫌だ~」って叫んでました爆  笑あせる
今年はコロナのせいか、例年よりかなり規模が縮小されているようですショボーン
 
浄財を待っている方も拍手
 
 

 

 『どんかん道』沿いの各々家々の玄関口で、小さな子供さんも含めて家族揃って腰を落とし、お神輿が通り過ぎていくまで、頭を下げ、手を合わせておられる姿から、いにしえからの地域の方々の温かい純粋な心が伝わってきて、胸がいっぱいになりましたお願い
 
 通常の参拝では味わえない、神様のお神輿の横でしばらく、一緒に道中過ごせることをありがたいな~照れ とつくづく感じましたお願い
 
神牛塚 ~案内板より~
 昌永4年(901)正月、太宰府に流された菅原道真(菅公)は、延喜3年(903)2月25日に謫居
(現在の榎社)で亡くなりました。 菅公の遺言により亡骸は太宰府の地に埋葬されることに
なりました。そこで亡骸を車に乗せ、牛に引かせ太宰府のはずれまで来たところ、急に牛が
動かなくなりました。これは菅公の思し召しであろうと、その場に葬ったのが、現在の太宰府天満宮本殿の場所であると伝えられています。 そして、その帰り道、車を引いていた牛もこの場所で倒れ、息を引き取ったということです。 憐れんだ人々はそこに牛を葬り、塚を建て供養したのが『神牛塚』と伝えられています牛
 
【右の案内板】 
 野石の由来は定かではない。 江戸の後期、此処には「佐藤卯三郎」の屋敷があり、この辺りを明治の中ごろまでは天満宮門前六町の内の一つ中町と呼んでいた。 
 正式な記録としては筑前國続風土記拾遺の巻、御笠郡宰府村の項に「牛塚」に関する記述がある。 それによると 『牛塚は中町人家の前に在り。野石なり。俗に菅神の乗給し神牛の斃たるを爰に埋といふ』 この文言の通り、野石は今も此処に座り続けている。
 
【左の案内板】
神牛塚の建碑者 古川勝隆氏
 慶応元年乙丑の年、由緒正しき古川家の第七十三代目として生まれる。
大正元年から九年まで太宰府町の町長を務めた。
大正十四年乙丑の年に還暦を迎え、その記念にこの石碑を建てた。 
 
 古川家は篤志家で室町時代には、飢饉に苦しむ人々の為に私財を放出して村人の命を守った。 そのことが元で家業が立ち行かなくなり、当主は止む無く天神様におすがりした。
すると、ある夜、枕元に白髪の老人が現れ、「明日の朝、庭の梅の木を見よ」と告げ消えた。
翌朝、庭の梅の枝に袋が掛けられており、その中の金子のおかげで家業は立ち直った。
 この一説はこの地方に伝わる金掛け梅の伝説であり、この金掛け梅がある屋敷こそ、古川勝隆の生家である。
 
 
聞いたことのあるこの話………
先ほど前を通ってきた『金掛天満宮(かなかけてんまんぐう)のお話だ~ひらめき電球
 
この木々の奥に『金掛天満宮』の祠が見えます目
 
 
金掛天満宮 
御祭神 菅原道真公
 
由緒  御土御門天皇の御世 明應の年 今より500年の昔、古川家当主第五十八代に勝時という人あり。勤勉にてその財を成したが、大旱魃起こりて凶作が続き、飢餓を訴える人は、道に溢れ、餓死する人もその数知れず、勝時、私財を投げ出し、これを救い助く、しかるに古川家は家運傾き、衰退の一途を辿り、子孫困窮す。
 次代勝政、家を挙げて、庭内の天神の祠に祈念す。されば、夢中で白髪の老翁が出現し
梅の木に黄金の袋を掛け置くを告げる。 翌朝、早く起き出でて、祠に詣でれば、果たして之あり。 これより、家運再び興りて、相承け相継ぎて今にある。時の人の曰く 「積善の余応天の賜なり」と。これ、この祠を金掛天満宮と称え申し上げる所以なり。
 因に、この祠、菅公御自作の宇多上皇像を建久九年に奉祀したことを創建とする。境内には、御維新の前、都落ちの為、太宰府延寿王院に逗留せし、三条実美公がこの古川家を訪ね来て、金掛けの梅を詠じた和歌あり。(境内石碑の案内文より)
 
梅の木と石の祠拍手照れキラキラ
 

この大きな木々が立っている敷地が、かっての古川家の屋敷跡でしょうかにやり

鎌倉時代の古川家は、天満宮に関係の深い商工業者六座の一つ米屋座だったそうです。

 

小さな天満宮さんですが、良いところですキラキラ

分かりにくいですが、太宰府郵便局の駐車場の一角が入口ですニコニコ

 

かなり長くなってしまったのであせる

次回に続きますニコニコあせる

 

今回も最後まで読んで頂いて、ホントにありがとうございました照れお願いキラキラ