前回の続きですビックリマーク

かなり間が開いてしまって、すみませんショボーンあせる

 

九州国立博物館

 

 

九州国立博物館は今から17年前、

平成17年(2005)10月に開館しましたキラキラ

 

元々は、菅公千年祭記念の明治26年「鎮西博物館」設立が計画され、内務省の許可も下りていたところ、日清戦争勃発のため、凍結あせる

 

その後、岡倉天心が古来から外交の要として九州に博物館設置の必要性を主張

 

昭和46年には建設用地を確保(約17万㎡のうち、14万㎡は太宰府天満宮から寄贈)

 

ホントに長~いこと、いろいろあって、たくさんの人々の尽力があってついに、開館拍手

 

 

天井が高い~、空港みたい気づき

 

国立博物館として新規オープンは、1897年京都国立博物館以来、108年ぶりだそうですビックリマーク

 

天満宮に隣接しているので、初詣と一緒に元旦から観覧できます爆  笑

その代わり、12/24~31まではお休みですビックリマーク

 

以前は、毎週金・土「夜の博物館」として

20:00まで開館してましたが、

コロナの影響もあり

現在は通常通り9:30~17:00までですあせる

 

 

 

1階 エントランス

 

ミュージアムホール

 

事前申込で無料聴講できます。

②に参加しました爆  笑

各展示会毎に、結構開催されています。

 

あじっぱ

~体験型展示室

九州国立博物館のエントランスホール

こども専用かと思っていたら、大人も入場できるそうですニコニコ

 

飾り山笠・常設展示

 

表・羅生門鬼退治勇

 

人形師・中村信喬氏は櫛田神社の飾り山の製作者でもあります神社

 

毎年天満宮の干支人形も製作されておられますトラ

 

ちょうど同時期に宝物殿で親子展が開催されていましたキラキラ

中村人形四代にわたる素晴らしい作品たち、

後日紹介しますねニコニコ

 

見送り:奇襲桶狭間の戦い

 

人形師:白水英章氏は地元近くの那珂川市在住の方で勝手に親近感を持ってます爆笑

 

 

 

博多山笠「舁き山」行事開催決定アップ

3年ぶりです拍手

今年のGWは、博多どんたくも5/2から開催キラキラ祭

熱心な方ではないけれど

毎年当たり前に生活に溶け込んでいたお祭りなので、やっぱり嬉しいです爆  笑

 

町に活気と賑わいが戻って、皆が笑顔で過ごせますようにお願い照れ

 

 

 

ミュージアムショップ

過去のトピック展の図録・オリジナルグッズ、おみやげ品販売。掘り出し物もあります宝石白宝石紫宝石ブルー

 

 

エスカレーターを上ると2階の展示階

 

 

 

最澄と天台宗のすべて

伝教大師1200年大遠忌記念 特別展

 

最澄さん没後1200年の昨年2021年、東京国立博物館を皮切りに巡回中。

4月12日から現在は京都国立博物館で開催されているようです花火

 

 

開催地毎に、若干展示物も違う様で

福岡では国宝24件、重要文化財68件を含む約120件の展示。

 

 

漫画『阿・吽』とのコラボポスター

 

おかざき真理氏が描く最澄と空海の物語・全14巻本

 

潜在意識の中で繋がる二人の世界に引き込まれます(画像お借りしました)

読み応えありました~照れ

 

 

今回は九博発行の『Asiage』vol.63を基に紹介します本

 

 

伝教大師坐像 滋賀県・観音寺所蔵

 

入ってすぐお迎え頂いた頭巾姿の最澄さん

隋の天台宗の開祖:天台大師・智顗も同じような頭巾姿で描かれてました。

 

 

 

天台法華宗年分縁起 滋賀県・延暦寺所蔵

 

 

最澄さんの『山家学生式(さんげがくしょうしき)=三部(六条式・八条式・四条式)の総称

『天台法華宗年分学生式(縁起)』

(六条式)の冒頭部分

 

国宝とは何物ぞ 

 とは道心なり 

 国の宝とは何か 

 宝とは道を修めようとする心である

 

道心ある

  名づけて国宝となす

 この道心を持っている人こそ 

 社会にとってなくては

 ならない国の宝である

 

故に古人言わく 

 ゆえに中国の昔の人は言った

 

径寸十枚 

   是れ国宝に非ず

 直径3センチの宝石十個、

 それが宝ではない

 

一隅を照らす 

 社会の一隅にいながら

 社会を照らす生活をする

 

此れ 則ち 国宝なり

 その人こそが

 なくてはならない国宝の人である

 

 

『山家学生式』は、最澄さんが法華経を基とする日本天台宗を開くにあたり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述され、嵯峨天皇に提出されたものだそうです。

 

引用させてもらいましたお願い

 

『一隅を照らす』

天拝山の麓・武蔵寺に掲示されていたポスター(2020年12月)


 

 

菩薩遊戯坐像(伝如意輪観音) 愛媛県・等妙寺蔵

 

このチラシの仏像に一目惚れお願い

びっくり このポーズアップ

片膝を立て 岩の上で寛ぐ姿~

涼やかな凛とした目つき

醸し出される気品流れ星

全てにキューンときて

絶対に行くビックリマーク

今回一番の楽しみでしたキラキラ

 

60年に一度だけ公開される愛媛の秘密

向かって左下から見上げると 

玉眼が微かに輝いて 本当に綺麗流れ星

 

今回の展示にあたり、新発見ビックリマークビックリマークビックリマーク

損傷や内部確認の為、調査したところ

なんと、首の内部に八角柱の五輪塔(高さ5cm、幅2cm)が新たに見つかり

さらに、この塔内に直径1~3mmの舎利が20個ほど確認されたそうですびっくり

すぐそばに展示用に作られた模型もありましたニコニコ

 

 

性空上人坐像 兵庫・圓教寺

36歳で出家し、九州の霧島・背振山などで修行した性空上人。 高く盛り上がった頭部内にあるガラス製の壺には、舎利(遺骨)が収められている?!

 

 

霧島神宮の旧参道・亀石坂を下ったところにひっそりと性空上人のお墓があります。

ふと思い出して、懐かしくなりました照れ

 

 

大黒天立像 福岡・観世音寺

中国へ渡る前、太宰府の竈門山(宝満山)や香春岳など九州北部の山々を巡った最澄。

福岡とも深いつながりとご縁があります。

 

見覚えのある大黒さんがびっくりビックリマーク

普段は観世音寺の宝蔵に安置されています。古式姿の大黒さん、本来のヒンドゥー教の破壊の神シバ神の異名マハーカーラ(マハーが大、カーラが黒)の忿怒の形相、スリムでシンプルな姿、樟の一本造。一度見たら、忘れられないインパクトある仏さまです照れお願い

 

 

~撮影可能な展示コーナー①ニコニコ

千日回峰行

 

 

クローバー展示パネルの紹介クローバー

千日回峰行は、数ある延暦寺の修行の中でも、最も厳しい行の一つ。不動明王に近づくための修行です。回峰行者は夜中に出発し、比叡山の峰々にある定められた250ヶ所ほどの神社、仏閣、霊木、霊石などに祈りを捧げながらひたすら歩きます。一日歩く距離は7里半(約30km) 満行までの総距離は、なんと地球一周分にも匹敵その過酷さから、この行を達成したのは記録が残っている信長の焼き討ち(1571)以降、わずか51人

 

回峰行の始祖:相応和尚は平安時代前期に活躍。円仁の弟子となり、厳しい修行を行いながら、天皇や貴族の求めに応じて数々の験力を示し、彼らの厚い信頼を得ました。その後、葛川(現・大津市坊村町)に籠って修行し、生身の不動明王を感得、貞観7年(865)比叡山東塔の南に無動寺を建立した。

 

 

比叡山延暦寺データ

標高848m 総敷地面積500万坪

三塔(東塔・西塔・横川)エリアに分かれ、16の谷があり、東塔・西塔エリアに各5つ、横川エリアに6つある。点在するお堂は100以上。

 

高野山は約867~900mと云われているのでほぼ同じ位ですね霧

 

千日回峰行の道順①比叡山

総距離7里半(約30km)、昇降が激しい山道。無動寺明王堂を午前2時出発、歩き始めます。ときおり見下ろせる琵琶湖や市街地を望む景色に癒されますが…。

 

千日回峰行万行までのスケジュール

 

千日回峰行は、毎年3月下旬にスタートします。 100日歩く年は7月初旬まで、200日歩く年は10月中旬まで、雨が降っても、台風が来ても、病気になっても休まず歩き続けます

いったん行に入ると止めることは出来ません。途中で断念したときに自ら命を絶つための紐も持ち歩きます。

 

~一年目~三年目まで毎日七里半(約30km)を100日連続~

【一年目】第初百日 1~100日 比叡山 

笠は手に持つ 裸足に草履

 

仏教では八は成仏 悟りの世界と考えられており、八里とすると悟りきってしまいます。

悟りに近づくために修行を続けるので、八に満たない数の七里半となっています。

 

【二年目】第二百日 101~200日 比叡山 

【三年目】第三百日 201~300日 比叡山 

 

~四年目から毎日七里半(約30km)を200日~

【四年目】第四百日 301~400日 比叡山 

 笠をいただく(被る) 足袋を履く

      第五百日 401~500日 比叡山

            451日~500日は百帯袈裟という特殊な袈裟を身に着ける

            五百日を終えると『百帯行者』

 

【五年目】第六百日 501~600日 比叡山 

杖を持つ

     第七百日 601~700日 比叡山

 

明王堂参籠(堂入り)最も過酷な九日間

無動寺明王堂に籠り、九日間、断食、断水、不眠、不臥(横にならない)で、ひたすら明王の真言を唱え続ける命がけの行です。一週間を過ぎると死臭が漂い、瞳孔が開いてくるほどの大苦行です。人間である限り離れられない食欲や睡眠欲などから離れ、人間であることを否定することで不動明王と一体化することを目指します。 堂入りを終えると『当行満阿闍梨』となる。

 

             第六百日目からの装束

 

 

【六年目】第八百日 701~800日 

毎日十五里(約60km)

比叡山~赤山禅院 ~赤山苦行~

堂入り後は 袖口の紐が紫色に

 

七年目の第九百日目は、京都大廻りと呼ばれる利他行(他者のために行う行)を行います。

回峰行者は夜中に出発して比叡山を7里半(約30km)歩いた後、人々のために祈祷しながら、京都市内の神社仏閣を巡り、夕方6時に宿舎へ入ります。その後、夜中の1時から来た道をほぼ逆戻りして比叡山へ戻ります。

 

 

【七年目】第九百日 801~900日 

毎日二十一里(約84km)

比叡山~赤山禅院~京都市内 ~京都大廻り~

第一千日を満行すると『北嶺大行満大阿闍梨』となる

 

残り25日を一生かけて修行

 

 

光永圓道さん(50人目、戦後13人目)2009年9月18日の300日までの様子PC

 

直近では2017年9月18日に、釜堀浩元さん(51人目、戦後14人目)が達成されていますキラキラ

 

 

 

~撮影可能な展示コーナー②ニコニコ

根本中堂と不滅の法灯

 

延暦四年(785)に青年僧最澄は比叡山に分け入って草庵を結びました(本願堂跡)

その三年後の延暦7年には、根本中堂の前身となる一乗止観院を建設し、山内の東塔北谷にある虚空蔵尾という場所に倒れていた霊木から掘り出した薬師如来像を安置しました。以来、この像が延暦寺の本尊として厨子に祀られ、その前には御前立の薬師像と、延暦寺の創建時より1200年以上にわたって灯され続けた不滅の法灯メラメラが置かれています。

 

 

国宝 根本中堂(内陣中央の厨子)の再現

延暦寺の根本中堂では、厨子扉の前に御前立、向かって右に梵天、向かって左に帝釈天がならび、厨子の側面を取り囲むように十二神将が左右に6躯ずつ配置されています。

 

 

本展示では、梵天・帝釈天、十二神将のうち子神・丑神をご覧いただきます。3基並ぶ不滅の法灯は、現役を退いた先代の法灯と伝えられているものです。

 

左から

丑神牛

 

梵天キラキラ

 

帝釈天キラキラ

 

子神ねずみ

 

 

丑神牛と不滅の法灯メラメラ

 

『山家学生式』パネル

 

他にも見どころ満載でした~おねがい

 

 

特設売店で購入した品々

特別展図録

 

 

叡山香 心鎮まる香です🕯照れ

 

特別展限定御朱印6種類の内『薬師如来』

最初に自作御本尊として延暦寺に祀られ

天台宗の薬師信仰の象徴クローバー

一枚一枚手書きされています鉛筆

 

 

傾斜が急なエスカレーターを下って

 

 

飾り山の斜め向かいの

 

 

エントランスホールの一角で、天台宗のお坊さんが、御朱印の日付入れして下さいました合格

 


この仏像が好きすぎて、2回行ってきましたニコニコ

今生でまた会えるのか~?所蔵のお寺で拝観できることを願いますお願いキラキラ

 

 

今、京都国立博物館で~5/22まで開催中ですニコニコ

 

 

 

帰り道は天満宮方面へランニング

綺麗に青空が映ってました流れ星

 

こちらは去年の桜の季節コスモス

 

桃色の様々な🌸が満開

 

 

しだれ桜の散歩道コスモス

 

ガラス窓にも映ってました花

 

アクセストンネル(動く歩道とエスカレーター)から天満宮方面へランニング

 

初めて通った時はワープの中みたいで、ワクワクしました爆笑 もう慣れたけどあせる

 

色んな色に変化していきます虹

 

今回も遅くなってしまい

また長々となってしまって、すみません不安💦

 

 

本当に毎回、最後まで読んで頂いてありがとうございましたおねがいお願いキラキラ

 

次回は~

ちょっと太宰府から離れて

最澄さんシリーズ、唐から戻って最初に建立した草庵『独鈷寺』を紹介しますほっこり

今回のお題は

 

九州国立博物館

 

 

3/21まで開催されている

「最澄と天台宗のすべて」

 

 

 

のはずだったのですが、

 

思いのほか博物館へ辿り着く前までが

長くなってしまったので驚きあせる

今回は、博物館の入口までになります汗

すみませんお願いショボーン

 

 

博物館まで 太宰府駅から徒歩15分走る人

 

天満宮参道と並行した静かな道ですチューリップ黄

 

駅の右手改札から出て

 

 

突き当ると

『国博通り』(浦町通り)

 

真っ直ぐ進むと交差点

 

 

左角の公園は

 

斎藤秋圃旧宅跡

江戸時代の秋月藩御用絵師だった斎藤秋圃(1768~1859)が、隠居後に住んでいたところといわれ、太宰府の賑わいを描いた博多太宰府屏風などの多くの作品を残しています。邸宅は20M先に移築され、現在も個人宅として住んでいらっしゃる方がおられるようです。

 

 

国博通り(浦町通り)を進みます走る人

 

 

昔はこんな感じだったんですね~照れ

 

 

筑紫女学園和敬寮を通り過ぎたお隣

 

 

藍染川に架かる石橋の袂の猿田彦大神の石碑

 

藍染川と梅壺侍従蘇生碑

 

この藍染川は平安時代の「伊勢物語」など多くの和歌に詠まれ、謡曲「藍染川」の舞台に

なったところで、次のような恋愛悲話が残っています。

 

「むかし、天満宮の社人、中務頼澄が京に上がった時、梅壺という天皇のお傍近くにつかえる女性と恋仲になり、梅千代という男の子が生まれました。 やがて、頼澄は筑紫へ戻ってしまいました。 月日が経って、梅壺は成長した我が子を父に逢わせようと太宰府まで来ましたが、頼澄の妻は、夫に会わせまいと梅壺母子を追い返そうとしました。 悲嘆した梅壺は、藍染川に身を投げて死んでしまいます。 それを知った頼澄梅壺の蘇生を天神様に祈ったところ梅壺は生き返りましたという物語です。 ~案内板より~

 

 

伝衣塔

鎌倉時代のこと、太宰府横岳の崇福寺(現在は博多区千代)にいた

聖一国師(円爾・博多承天寺、京都東福寺開山した臨済宗の僧、博多山笠の生みの親)の夢枕に

菅神(菅原道真公)が現れ禅の教えを問うた。

 

そこで国師が宋(中国)の仏鑑禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋へ渡り、忽ちに悟りを開いて戻ってこられたという。 渡宋天神の話であるが、悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子である鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる。 ~案内板より~

 

渡唐天神像 狩野元信筆 室町時代

 

 

渡唐天神像 仙厓筆 江戸時代

やっぱり仙厓さんの画、たまらん~ニコニコ

 

*いずれも太宰府天満宮宝物館・常設展示で観られます*

 

この下に衣祭が納められているのでしょうか?

 

お隣のお堂の屋根が破損、今にも崩れそうだったのですが、

 

去年、お堂の補修工事がされて

 

 

立派になっていましたキラキラ

雨漏り汗や崩れる心配がなくなってホントに良かったのですが

 

お堂の前にあった風情のある建物の礎石?や苔クローバー

 

綺麗になくなっていたのが、名残惜しかったですあせる

 

裏の岩山に何か感じてるのかはてなマーク

とても惹かれるものを感じて、

太宰府さんに来たときは

必ずここにもお参りしています爆笑

 

通りに戻ると、宝満山が綺麗に見えます~霧

 

更にお隣は

 

 

光明禅寺

先ほどの伝衣塔を建立した鉄牛円心が文永10年(1273)に開山した

臨済宗東福寺派寺院。 江戸時代には太宰府天満宮に仕える人々とその家族の菩提寺として、元和2年(1616)に再興されて、安政3年(1856)7月再営された天満宮の結縁寺です

~ウィキペディア参照~

 

 

一滴海之庭

本堂の表裏にある庭園は、昭和32年(1957)、作庭家・重盛美玲氏によるものキラキラ

 

 

 

 

表庭は、七五三式の十五石を並べ、

光明寺の『光』という文字を抽象的に表現した仏光石庭

 

 

本庭は、本堂や茶室から鑑賞する座観式の庭園で、渡宋天神伝説に基づき

白砂と青苔、多数の石組による岩島で『大海』が表現され

大海も一滴💧が集まって成るという一滴海庭

 

県指定名勝 枯山水庭園で、移り変わる四季を楽しめる紅葉でも有名なお寺でしたもみじ

最後に訪問したのはもう、6、7年前でしょうか~

数年前から、紅葉シーズンを含め閉鎖されていることが多く、

一部の観光客のマナーの悪さが原因のようでした絶望

たま~に、開いていることがあるようですキラキラ

そんなチャンスに巡り合えますようにニコニコ

 

 

門を守る狛犬さんアップ

 

 

下り藤に三引きの紋

 

 

 

お寺の前の猿田彦神

 

前を流れる藍染川

 

 

更に川沿いを奥へ進みます走る人

 

太宰府🌸梅柄マンホール

 

 

九博の屋根が見えてきました目

 

 

リフトもあります気づき

 

階段を上るとランニング

 

到着~グッ爆  笑

 

 

上の白い道を 歩いてきました走る人

 

 

エントランスのガラスの白龍さん龍が迎えてくれますキラキラ

 

到着まで長くなってしまったのでガーン

 

博物館編は次回に!

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

今回は

宝満宮竈門神社(3)上宮までの道②』で書いた

 

宝満山・岩窟ホテル跡の奥にあった

『奥ノ坊』から

明治の廃仏毀釈の修験道廃止後、

末裔である大岡氏と共に山を降りた、

伝教大師作と伝わる『大黒天』が安置されていた

冷泉町の『寶照院』の案内ですキラキラ

 

 

冷泉公園、櫛田神社からも徒歩圏内走る人

 

 


上西町通り沿い

 

うっかりすると見過ごしてしまいそうな

奥ゆかしい佇まいキラキラ

 

 

手水舎

 

石仏

お清めの『お潮井てぼ』

 

北辰宮再建の碑

 

 

光星山 寶照院北辰堂

 (博多の北辰様)

~案内パンフレットより~

 

御本尊 北辰妙見大菩薩

脇時   大黒天尊 (宝満山旧奥ノ坊本尊)  伝教大師最澄作

      不動明王  (宝満山旧吉祥坊本尊)

      神変大菩薩 (宝満山遺佛)

 

沿革

 当院は元々智樂院と号し、永い間無住の時代が続き、古文書などの記録には紛散し、正確な創立年代については不明である。

 

 しかし、明和四年(1767)の竈門山入峰伝記には、その名が見え少なくとも江戸時代初期には、竈門山座主配下の博多における修験寺院であった。

 

 明治になり神仏分離令・廃仏毀釈により修験道は廃止され、山を降りざるを得なかった山伏の中で 宝満山二十五坊の内、大黒天奥ノ坊九十五代重弁が明治六年入寺して、その法統を引き継いでいる。

 

 明治三十三年に糸島郡志摩町小田にあった寶照院と合併し、その際に寺号を現在の寶照院に改められた。

 

 本尊の北辰妙見は北極星を神格化したもので、中国からの渡来佛と云われ、公開はされず蛇亀に乗った女神像と伝えられている。

 

 昔より【火除けの神】として信仰され、

本尊をお祀りしているこの地域は先の大戦でも空襲の難を逃れ、現在まで殆ど火災も起きていない。

 

 

入口には木彫りの大黒様

 

 

博多町家 ふるさと瓦版 秋号(令和2年10月1日発行)の『博多文化継承人』掲載

 

当院ご住職・大岡重寶さんのインタビュー

 

 明治の初め、ひいお爺さんの頃に廃仏毀釈で糸島へ行ったのち、博多の箔屋番

(金箔・銀箔職人、鋏職人・箔屋新左ヱ門などが居た『博多鋏誕生の地』・職人の町)

竹若町(博多織の中興の祖・竹若藤兵衛の住居があったのが町名の由来・ちょうど寶照院の真向いが跡地)萬行寺前町(現・冷泉町)の住民に呼ばれ、現・北辰堂へ入ったそうです。

 

 それから後は、冷泉町で火事はなく、毎年8月6日の七夕夏祭りの際に、火除けと子どもの無病息災を祈ります。 お堂で護摩祈祷がなされ、町内の角々で勤行、辻祈祷により結界を張り、区域内を清めるそうですキラキラ

 

 

辻祈禱のイラスト

お堂の戸口に貼ってありました流れ星

涼し気な夏の夜の情景が浮かびます照れ

 

花火夏祭 辻祈禱花火

 

貝皿こよりの千明灯メラメラ

この時期、博多旧市街の数か所の寺院で千明灯供養が行われますお願い

 

 

砂が詰められた樋(竹?)の上に貝皿が乗せられています目

 

波と鯉うお座

 

 

子どもたちに、ほうずき提灯が配られます爆笑

 

 

 

 

櫛田通りの辻

 

結袈裟のボンボン(梵天)は、前に四つ、後ろに二つ、六つ六波羅蜜(現世で生かされたまま、仏様の境地に到るまでの六つの修行)を表しており、修験者の位階によって色が違うそうです。

 

般若心経の読経が辻辻に響きますお願い

 

 

通り沿いに、ずら~っと七夕飾り風鈴

 

 

冷泉通りの辻

 

櫛田表参道の辻

 

 


櫛田神社の門前町のこの付近は、かってたくさんの旅館が軒を連ねていたそうですびっくり

 

今はなき、鹿島本館(当時2019.8.6)

 

大正建築の福岡市で初めて国指定有形文化財となった、趣のある数寄屋造りの和風旅館。

庶民的な宿泊代だったので、いつか泊まってみたいと思っていたお宿でした悲しい

令和3年3月に解体されたそうで、今は駐車場になっていますあせる

ここでも、コロナ下の影響でしょうか…

とても残念です泣くうさぎ

 

 

大博通りの辻

 

櫛田表参道の一の鳥居神社

向かい側に東長寺・五重塔のテッペン、相輪が宵闇夜の街に光ってましたキラキラ

 

 

新硯稲荷神社

表参道沿いの蕎麦屋『むらた』さんの隣

屋根の上のお狐さん、一度見たら忘れられない、なんとも気になるお顔ですニコニコラブラブ

 

 

ふるさと町家館の前

 

通りの奥には『お櫛田さん』

 

ほんわり提灯のロウソクの灯が、夏の夜を彩っています星空

 

 

締めの法螺貝が響き渡りますお願い

 

 

少し早めにお堂に戻って

 

大黒様にご挨拶照れ

いつもこの地域を守ってくださってありがとうございますお願いキラキラ

 

この日の新聞記事

 

キラキラ辻祈祷キラキラ

法螺貝の音が響き気づき 

 

修験者の読経が 暮れた博多の辻辻に流れる

 

縫い上げた浴衣祭ののこどもたちは

 

ほおずきの提灯丸レッドをゆらしながら

 

修験者たちのあとに従う

 

家々には七夕の笹竹スターが立ち 

 

夕風にかすかな葉ずれクローバーが聞こえてくる

 

短冊の願い風鈴を読み上げているように

 

山笠のあとの夏の世の夢花火のような

 

寶照院の辻祈祷お願い

 

この詩の通りの素敵なお祭りでした流れ星照れ

 

花火大黒天福迎祭花火

毎年十二月二、三日

最澄さん作と云われている

『大黒天御開帳』祭りです拍手

 

 

ポスター『大黒天』さまとご対面爆笑

 

12月2日は16:00~0:00まで

翌12月3日は9:00~16:00まで

 

宝満宮竈門神社(3)上宮までの道②』と同じ

大黒天さまの由来

 

この『大黒さま』は、

別名『塩売大黒』

 

 ある冬、大雪雪で山に閉じ込められた山伏たちは、塩がなくなり困っていたところ絶望、坊の台所に塩が届けられていました爆笑

 

 大雪雪の結晶の中、いったい誰がびっくりはてなマークと不思議に思い、雪の上に残る草鞋の跡足を辿っていくと『大黒寺奥の坊』の入口で途切れており、扉の奥の本尊の前に、雪の付いた草鞋が揃えてありましたお願いキューン 

 

 人々は大黒さまの霊験あらたかな様に、より一層崇め奉ったという伝説から、親しみを込め呼ばれるようになったようですお願い

 

 

 山門

 

門には五色のカラフルな紙垂飾り目

左側に白・紫

 

右側に赤・緑

 

中央に黄色

 

 

正面の大黒さんの後ろ奥に

 

 

塩売大黒天

 

とっても柔らかな 優しいお顔お願い

ぶ厚い唇💋と 大きなお鼻が魅力的ですニコニコ

 

 

『大黒天』の打出小槌と結ばれた五色の紐が、前に立っておられるお坊さんの小槌と繋がっており、小槌を振るって頂くことで御加護を頂けるとのことニコニコ

 

『おんまか きゃらや そわか』とそっと3回唱え、振るって頂きましたお願いキラキラ

 

喫茶『タカラ』と山門

 

例年、福引・ぜんざい接待付参拝券を購入してクジを引き、住職の奥様が切り盛りされていた隣の喫茶『タカラ』さんで、温かくボリュームある美味しいおぜんざいの接待を頂けていました割り箸

 

コロナの影響でおととしはお接待中止あせる

 

 

 

移転前の最後の去年は、福引が無いかわりに

無償で福笹・御守り札・干支の宝来を授与頂きましたお願い

 

 

令和二年の福引で頂いた宝来

 

 

お堂の老朽化に伴い、昨年12月の『福迎祭』が、ここでの仏事の区切りとなり

現在、お堂は解体され、

約1年後、ゆかりある宝満山の麓の新しい本堂へ移転予定だそうですキラキラ

 

 

 

西日本新聞記事によると、七夕祭りなど地域のお祭りは今後も継続されるとのことほっこり

 

130年にわたって、地域を見守り親しまれてきた『寶照院』

喫茶『タカラ』さんの日替わりランチは絶品で

昭和レトロな店内の落ち着く雰囲気と共に

楽しませていただきました照れ

 

今まで本当にありがとうございましたお願いお願い

 

さみしいですが、お祭りや新しい本堂の完成を楽しみにしています✨

 

 

 

 

 

『寶照院』近く『櫛田表参道』沿いの

ぱん屋のぺったん

 

朝7:00~売り切れ迄

 

個性的なパン😆

 

 

大仏さん

螺髪一個一個、大変だったでしょうねほっこりあせる

中身はチョコクリームだったかな?

 

オニさん

クリームチーズにドライトマト🍅

 

かえるさん

かえるの大口の中はシューガーパンドキドキ

口の中の丸顔おじさんの中身は胡麻餡照れ

 

おいささん

山笠の掛け声「おいさ、おいさ」爆笑

にわか面にフンドシ姿に明太子爆  笑気づき

中身はきな粉クリーム、口からはみ出てるビックリマーク

 

外見だけでなく、中身も手が込んでいて、食べるのがもったいない~よだれ

けど、とっても美味しいグッニコニコ

お面剥いで、ツノちぎって、楽しみながら食べれますキラキラ

大人も子どもも大満足のぺったんさんのパン

機会があったら是非ニコニコ

 

大体午前中で売り切れてしまうので

お早めにどうぞ~ランニング

 

今回も最後まで読んで頂いてありがとうございました照れお願いキラキラ

 

次回は最澄さん繋がりで

九州国立博物館『最澄と天台宗のすべて』展

を紹介予定ですチューリップ紫チューリップ赤チューリップ黄

前回『上宮到着アップ』続きですニコニコ

 

 

爽やかな山頂~キラキラ

 

 古の時代、ここ山頂が信仰の上で最も大切な場所で、玉依姫現れた伝承や、太宰府政庁の設置にあたり、鬼門となる重要地として、八百万の神を祀り、祭祀が始まったそうです。

 

 社殿は、海からの敵を見据え西北を向いて建てられており、宗像大社、筥崎宮、住吉神社も同じ向きに建っています。 神社の多くは、南か西向きに建てられているそうです。 

 

 戦前まではここに社務所がありましたが、

昭和27年に焼失した為、昭和32年に現在のコンクリート社が再建されました。

 

 

二礼 二拍手 一礼 照れ拍手キラキラ

 

無事、到着出来ましたドキドキ

ありがとうございます爆笑

 

宝満山の歴史

 

 平成25年10月、宝満山は、歴史上、重要な国家的祭祀が行われてきた「霊山」として、鳥海山、富士山に次ぐ、全国3例目の国史跡に指定されましたお願い

 

 白村江の戦(663)に敗れて以降、国防の重要地・太宰府の鬼門除けとして、八百万神が祀られ、心蓮上人の玉依姫顕現の上告(673)によって、上宮の建立、役行者の修行(706)により霊場が開かれ、遣唐船の航海の安全を最澄が祈り(803)、後に続く円仁、円珍らをはじめ高僧の往来も盛んとなり、中世以降、蒙古襲来を機に、鎌倉時代に修験道が本格的に導入され、中宮の造立、活動の中心地となっていました。

 

 度重なる戦乱(南北朝、戦国時代)により荒廃しますが、豊臣秀吉や小早川隆景、歴代の黒田藩主の寄進を受けて、再び信仰を集めました。

 

 明治維新後、神仏分離令により修験道の廃止(1872)、宝満山は徹底的に破壊され、山伏は山を追われました。

 

 しかし、御祭神が玉依姫(神武天皇の母)であること、国の重要な歴史に関わる神社であることから、竈門神社下宮と上宮のみが残されました。 

 

 昭和57年(1982)心蓮上人の1300年遠忌記念に宝満山修験会が結成され、毎年5月の第2日曜日に入峰の復活、最終日曜日に採燈大護摩供が行われていますメラメラ

 

 また、宝満山開創1350年を記念して平成25年に、明治以降、途絶えていた英彦山への峰入りも再興したそうですキラキラ

 

 

案内板でもわかるように、

筑前・筑後 全方向見渡せます合格

 

この日は前日台風が過ぎていった後の台風一過キラキラ

左側に能古島

中央に志賀島と海の中道

市内一望虹 遠くまで見渡せます~爆笑合格

 

油山・背振方面富士山

 

四王寺山富士山 

大城山(おおきやま・大野山とも)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山からなり、それぞれを別個の山として、一帯の山地の総称として四王寺山脈四王寺山地と呼ばれる場合もあるそうです ~ウィキペディアより~

 

 古代山城でもあり、上からみると地形がよくわかりますニコニコ

 

稜線に雲の影くもりくもりくもり

三郡山、若杉山方面

 

上宮の横から舞台石の方へ上ると

 

宝満山上宮碑

 

岩々の間からの景色キラキラ

大根地山の三角が見えます富士山

 

 

筑後平野、朝倉・久留米方面

 

礼拝石

 この石の上が、山伏達の「大巡行おおめぐりぎょう」の際の礼拝の場でした。

 丑の刻(午前二時)に、最も高いこの場所から、星空に向かっての読経は、山頂から天へ響き渡り、荘厳な儀式であったことでしょうお願い流れ星

 

 石の上に皆、登っちゃってるけど滝汗

 多くの人に親しまれてるお山の神さまのようなので、苦笑いしながらも、許してくださっているのかもあせる

 

肇祉と彫られていますアップ

「祉を肇はじむ」 祉は福。

幸福を開き始めるを意味するそうですキラキラ

 

 

眼下には宝満山楞伽院山荘(キャンプセンター)

 

 キャンプセンターは、元禄時代から明治維新まで当山の山伏の中心であった楞伽院(りょうがいん)の跡地に立っています霧

 

楞伽院 ~筑前名所図会(奥村玉蘭)より~

 

 上宮の下の広い敷地の立派な建物だったことが描かれていますニコニコ

 

十六詣り

~以下宝満山弘有会ホームページから抜粋~

 

「十六詣り」は、16歳になった男女が4月16日(または8日)に宝満山に登り、上宮でお祓いを受け、男は一生金銭に困らないように、女は良縁を得ますようにと祈った行事でしたが、 戦後、成人年齢が20歳になった事、村の組織の崩壊などによって次第に行われなくなりました。

 

十六詣りで上宮に参拝すると、オミクジを引き、その中に入れられた金玉1個、銀玉2個を引き当てると「幸運を得る」などともいわれました。 また稚児落としの断崖の岩間の木「縁結びのコヨリ」を結びつけると願いが叶うともいわれました。

 

太宰府の桜町区で聞いたお話では、

「半世紀前頃まで旧暦4月8日、16歳の者が連れだって宝満詣りをした。

 女は、新しい久留米の紅絣の短着に赤い腰巻き、黒の手甲・脚絆に紅白のアトガケのついた竹皮の草履をはき、新しい手ぬぐいを被ったおそろいの装束で登った。

 上宮にお参りした帰りには、シャクナゲの枝に糸のついた丸いオコシを下げたものをいくつも持って帰り、宝満詣りの祝をくれた親戚に配った。 

 女の子達は、この時着た着物をそのまま洗濯せずにとっておいて、田植えの時にそれを着て早乙女になった。 

 男の子は8日・9日と二晩続く若者組の春籠りに、酒一升・肴一鉢を持参、親が付き添って組み入り(大人の仲間入り)を、女も招かれて加勢をしながら二日間を楽しんだ」ということです。”

 

平成25年からこの行事は復興され、毎年事前予約で参加できるようです。

宝満山弘有会ホームページより)

 

 

上宮付近には、たくさんの蝶々が飛び回っていました飛び出すハート

アゲハ蝶、モンシロチョウ、キチョウに、この蝶々スター 動きが早くて中々撮れませんでしたあせる

 

上宮から少し下りたところに

凄く見晴らしの良さそうな場所キラキラ

 

この不思議なマークは何だろうはてなマークはてなマークはてなマーク

 

山 と 十 ? 

座るにはちょうどイイ感じ爆笑

 

綺麗な木肌~、何の木かな?

 

また、ツリフネソウコスモス

 

 

チャウロコタケ(茶鱗茸)

 

ベンチの横に救急箱が設置びっくり

ありがたいですね照れ

 

木漏れ日に透けた葉っぱ霧飛び出すハート

 

交差する二本の倒木が門みたいキラキラ

 

とっても気持ちいいです~クローバー

 

 

足元に小指よりちっちゃなトカゲ目

 

 

カナヘビのおチビさんハイハイ気づき

写真撮らせて~📷って言ったら、しばらくじっとしてカメラ目線くれました爆  笑ラブラブ

 

 

ついに、一合目まで下りてきました~クローバー

ほぼ15時です走る人 

じっくり山を堪能させて頂きましたニコニコ

 

 

斜め上にある歌碑

 

~筑紫へまかりける時に かまと山のふもとに宿とりて侍けるに 道へらに侍ける木にふるく  書きつけて侍ける

    春はもえ秋はこかるるかまと山

とありけるを、 又書きつける

    霞もきりもけふりとそみる ~

 

『拾遺和歌集』に収められている

清少納言の父『清原元輔』の歌

 

元輔三十六歌仙の一人、79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、83歳で任地で死去。

 

肥後に赴任の際に、竈門山の麓の宿に泊まり道端で見つけた古い木片に書きつけてあった上の句を詠んで、下の句を合わせて詠んだと書かれています鉛筆

 

たくさんある宝満山を詠った歌の中でも、最も表現に優れた歌として有名だそうですキラキラ

 

 

休業中のお蕎麦屋さんの前にいたワンちゃんわんわん

 

笑ってるみたいな顔爆  笑ラブラブ

穏やかでフレンドリーなワンちゃんでしたニコニコ

 

 

今回の参考にさせて頂いた文献

大変お世話になりましたお願いおねがい

 

 

 

 

 

竈門神社ホームページ

宝満山弘有会ホームページ

 

 

まだまだ見どころたくさん

魅力満載の宝満山アップ

九州でも人気の山って、よくわかりましたうさぎのぬいぐるみ

何度でも行きたくなります走る人

今度は別ルートを巡ってみたいと思いますあしあと

 

 

詰め込み過ぎあせると思いつつ

長くなりすぎて、すみません滝汗

最後までお付き合い頂いて感謝です気づき

本当にありがとうございましたおねがいお願いキラキラ

 

次回は、文中でも少し案内していた

博多冷泉町の『寶照院』をご案内しますニコニコ

今更ですが💦

 

明けましておめでとうございます虹

 

大変遅くなりました💦 今年初の投稿です爆笑 

 

昨年は、多くの方に読んで頂いて本当に感謝しておりますキラキラ

 

今年も、ペースは遅いですが、引き続きよろしくお願いいたしますお願い

 

 

 

前回『閼伽ノ井』からの続きです爆笑

 

ここ『岩窟ホテル跡』は以前は二十五坊中、最大で一時座主となった

『亀石坊』があり、その更に奥に

『奥の坊』がありました。

 

岩窟ホテル跡

 

『奥の坊』には、伝教大師・最澄作と伝わる『大黒天』が祀られていたので『大黒寺奥の坊』とも呼ばれていたそうです。 

 

この『大黒天』は、明治の廃仏毀釈で修験道が廃止され、『奥の坊』の末裔である大岡氏と

共に山を降り、昨年の12月まで現在の冷泉町の『寶照院』に安置され、年一度の

『大黒天福迎祭』の際に、御開帳されていましたキラキラ

 

寶照院

 

櫛田神社、冷泉公園のそばにありました上差し

 

 

令和1年福迎祭ポスターキラキラ

 

この『大黒さま』は、

別名『塩売大黒』

 

 ある冬、大雪雪で山に閉じ込められた山伏たちは、塩がなくなり困っていたところ絶望、坊の台所に塩が届けられていました爆笑

 

 大雪雪の結晶の中、いったい誰がびっくりはてなマークと不思議に思い、雪の上に残る草鞋の跡足を辿っていくと『大黒寺奥の坊』の入口で途切れており、扉の奥の本尊の前に、雪の付いた草鞋が揃えてありましたお願いキューン 

 

 人々は大黒さまの霊験あらたかな様に、より一層崇め奉ったという伝説から、親しみを込め呼ばれるようになったようですお願い

 

「笠地蔵」のようなお話ですねおねがいキラキラ

 

残念ながら『寶照院』は、昨年12月の福迎祭を最後に移転することになりました泣くうさぎ

 

町内の厄除祈願や辻祈祷など、親しまれていた『寶照院』を次回、紹介しますキラキラ

 

『閼伽の井』広場から更に登っていくと、

 

 

右手に、壊れた鳥居の笠木に刻まれた

『芭蕉の句碑』

  世の人の見つけぬ花や軒の栗

誰が刻んだのかわかりませんでしたあせる

 


苔がフカフカ飛び出すハート

 

色んな木々の緑の葉っぱ霧

 

矢穴の跡

 

 

どんぐりころころくるくる

 

 

雲の流れが早いですくもり

 

「三~醤油大~?」と刻まれた石碑の先に

 

玉垣のような低い石柱囲まれた、ひらけた場所に出ましたキラキラ

 

『中宮跡』 七合目

 

 宝満山修験道が盛んだったころ、この場所に中宮といわれ、この山の本地仏十一面観音をまつる大講堂を中心に、神楽堂、鐘楼、法華塔、九重塔、黒田光之寄進の鳥居、毘沙門などの小祠が建ち並び、山伏の修法の中心地であったが、明治初年の廃仏毀釈によりとりこわされ、茅野となった。         太宰府市

 

 

正面には『竈門山碑』

 

石碑の手前に、石の鳥居神社の下の部分のみ残っています。

 

この鳥居も、一の鳥居と同じく「平石坊弘有」の勧進で作られたそうですキラキラ

 

石碑土台に謂れが刻まれ、120人の浄財により

 

大正十二年五月に建立されたことが記されていますキラキラ

太宰府天満宮や竈門神社の宮司家である西高辻氏の名前もあります。

 

 

石碑の周辺は、野花に囲まれていましたチューリップ黄チューリップ赤チューリップ紫

 

更に奥に、静かに祀られている石の祠

この後ろの小高い所に、毘沙門天、祇園社、金凝皇子祠、松尾皇子祠があり、そのうちの

祇園社と毘沙門天は石の祠だったそうなので、現在ある二つの祠はそれなのかもしれませんクローバー

 

祠の裏側の岩に刻まれた『梵字』

 

「金剛界大日」「胎蔵界大日」の種子

銘に「文保二年戌午(1318)九月 施主 大先達権大僧都法印伊多坊幸榮入峰十六度」

 

岩の麓に祀られた石仏お願い

 

 

『中宮跡』から三叉路を左『羅漢道』へ入り、

.

 

大きな岩づたいに進んだ先に

 

『金剛兵衛剣窟』

 刀工「金剛兵衛こんごうひょうえが修行したといわれる窟

 

「金剛兵衛

 鎌倉時代から続く、刀鍛冶の一派。

所説あるが、初代盛高の父・盛国もと宝満山の山伏だったが、その父が備中鍛冶で、母が刀工・左文字派の娘であった為、刀鍛冶になった。 当時に行き来があった、彦山=胎蔵界に対し、宝満山=金剛界にちなんで、「金剛兵衛」と名乗ったと言われる。 

 

 現在も続く、盛高鍛冶刃物初代金剛兵衛・源盛高より数えて27代目

切られた者が安らかに成仏するようにとの願いを込めて、中心(なかご=刀のうち、刃がついておらず、柄に収められた部分。通常刀工の銘が刻まれている)の先端が山形になっている「卒塔婆頭(そとばかしら)」の形をしているのが特徴。

 

窟の上部

 

ほとんど字が読めません…

 

 ちなみに、竈門神社下の石段途中の左手、式部稲荷下あたりにはお墓があり、墓石も「卒塔婆頭」の形をしています。 明治時代に北海道に住む末裔が夢のお告げによって、先祖の墓を探り当てた感激を、記した石碑も並んであるそうですおねがい このブログを書いてて感じますが、夢のお告げって結構あるんですね照れキラキラ

 

 こうして辿っていくと、杖術の祖・夢想権之助、刀工・金剛兵衛が修行し、大成した宝満山、竈門神社が、名前からだけでなく「鬼滅の聖地」といわれる理由もわかる気がします。

というか、作者の人が凄い~ビックリマーク凄く調べてるんじゃないかな~と思いましたニヤリ

 

 

八合目付近の男道と女道の分岐点まで戻って

 

 

男道 岩の道を進みます走る人

 

 

光が差し込んで、気持ちいい~爆  笑アップ

 

 

岩石の階段あせるも、なんか楽しい飛び出すハート

 

岩が突き出てるキラキラ

座禅組んで、瞑想できそうな場所ですおねがい 

山伏さんも修行していたかもはてなマーク

 

 

最高の眺めキラキラ気づき

下の三角の山は大根地山かなはてなマーク

 

 

『益影の井』の案内板の坂を少し下ると

 

 

見えてきました目

 

『益影の井』 

 宝満山中には、五所秘水といって霊水が湧き出る泉があり、その中で一番神聖な泉が益影の井です。 筑前国続風土記に 「人がこの水に影を写すと、老顔も〈益々〉若く少壮の如くうつるので益影の井と名づけられた」 とまた 「応神天皇が粕屋郡宇美町でご誕生の折にこの水をわかして産湯にされた」 などその外、雨乞いの祈祷水など昔より信仰と伝説に富んだ、霊験あらたかな若返りの泉でありますダウンにっこり 

昭和61年11月文化の日筑紫野市むさしヶ丘保育園

 

木の葉が溜まっていましたが、水は澄んでいてましたダウン

訪れる人も少ないようでしたあせる

しっかり覗いて、顔を写してきました爆  笑アップ

 

下ってきた坂道をまた登って戻って、進むと

 

砦のように、そびえたつ三つの岩爆  笑

「竈門山」の由来となった総称『竈門岩』飛び出すハート 九合目

神功皇后が、応神天皇を出産する際、この三つの岩の上に大釜をかけて、先ほどの『益影の井』から汲んできた水を沸かし、産湯としたと伝えられています。

 

ところが、いつの時代かそのうちの一つが折れてしまっていたものを、文化十三年(1816)

福岡の魚屋武四郎さんが願主となり、仲谷坊が間に入り、博多聖福寺の仙厓和尚の揮毫

『仙竈』と刻み、元通りにしたそうです。

 

 

~仙厓書~ と記されていますキラキラ

 

「竈」っていう字は難しいけど、大きく書かれているので構成がよくわかりましたひらめき電球

こんなに力強く美しく字を彫った石工さんって凄いな~と、改めて感じいりました照れ

 

 

仙厓さんは88歳で亡くなられていますが

66歳、68歳、69歳と3回も宝満山に登っておられ、画も残されていますクローバー

 

 

 

仙竈石の隣に、小岩が乗っている巨石

 

 

亀が首出している🐢ようなので亀石

 

亀石の岩壁に彫られているのが、先ほどの仙竈石復元の由来だそうですキラキラ

 

頭上から人の声が聞こえました上差し

岩の上に登れるようですほっこり

 

 

廻り込んで進んでいくと また、巨石に文字が彫られています鉛筆

 

 ~玉姫降神 則山谷鳴震動 心蓮登座則天華飛繽紛~

 

この碑文も仙厓さんの書だそうです上差し

 

馬蹄石 ~案内板より~

「玉姫降神すれば則ち山谷鳴って震動す、心蓮座に登れば則ち天華飛びて繽紛たり」

 

 天武天皇白鳳二年(673)二月十日の辰の刻に、 法相宗の僧でこの山の開山である心蓮上人が、 宝満山に籠り樒閼伽の水を持って修行していたところ、 俄に山谷が震動し何んともいえない香りが漂い、忽然と貴婦人が現われ、 我は玉依姫なり、現国を守り民を鎮護するためにこの山中に居ること年久し…」 と告げたかと思うとたちまち雲霧がおこり、 貴婦人は姿を変じて金剛神となり九頭の龍馬に駕して飛び立った。 その時の龍馬の蹄のあとが大岩の上のくぼみであるといい伝えている。  宝満山修験会 昭和六十三年 三月

 

 この様子に驚いた心蓮上人は太宰府に申し出、天皇の耳に届き、宝満宮上宮が建立されたそうです。

 

袖すり岩

登山道に戻る際に通る、岩に挟まれた狭い道

「袖すり合うも他生の縁」のことわざに因んだ縁結びの名所とされるそうですクローバー

 

 

すんごい崖のような岩の道を登って滝汗

 

最後の石段笑い泣き

 

花火上宮花火 到着~

既に凄い登山者の数びっくり

皆さん、お疲れさまでした~ニコニコおにぎり

 

久しぶりの800M越えのお山ニコニコ

 

最高~の眺めですキラキラニコニコ

 

 

思いのほか、長くなってしまったので滝汗

上宮編、次回に分けますあせる

 

近日中にアップできると思いますニコニコ

 

今回も最後まで読んで頂いてありがとうございましたおねがいお願いキラキラ

 

今年もよろしくお願いします歩くドキドキ