前回『上宮到着』続きです
爽やかな山頂~
古の時代、ここ山頂が信仰の上で最も大切な場所で、玉依姫現れた伝承や、太宰府政庁の設置にあたり、鬼門となる重要地として、八百万の神を祀り、祭祀が始まったそうです。
社殿は、海からの敵を見据え西北を向いて建てられており、宗像大社、筥崎宮、住吉神社も同じ向きに建っています。 神社の多くは、南か西向きに建てられているそうです。
戦前まではここに社務所がありましたが、
昭和27年に焼失した為、昭和32年に現在のコンクリート社が再建されました。
二礼 二拍手 一礼
無事、到着出来ました
ありがとうございます
宝満山の歴史
平成25年10月、宝満山は、歴史上、重要な国家的祭祀が行われてきた「霊山」として、鳥海山、富士山に次ぐ、全国3例目の国史跡に指定されました
白村江の戦(663)に敗れて以降、国防の重要地・太宰府の鬼門除けとして、八百万神が祀られ、心蓮上人の玉依姫顕現の上告(673)によって、上宮の建立、役行者の修行(706)により霊場が開かれ、遣唐船の航海の安全を最澄が祈り(803)、後に続く円仁、円珍らをはじめ高僧の往来も盛んとなり、中世以降、蒙古襲来を機に、鎌倉時代に修験道が本格的に導入され、中宮の造立、活動の中心地となっていました。
度重なる戦乱(南北朝、戦国時代)により荒廃しますが、豊臣秀吉や小早川隆景、歴代の黒田藩主の寄進を受けて、再び信仰を集めました。
明治維新後、神仏分離令により修験道の廃止(1872)、宝満山は徹底的に破壊され、山伏は山を追われました。
しかし、御祭神が玉依姫(神武天皇の母)であること、国の重要な歴史に関わる神社であることから、竈門神社下宮と上宮のみが残されました。
昭和57年(1982)心蓮上人の1300年遠忌記念に宝満山修験会が結成され、毎年5月の第2日曜日に入峰の復活、最終日曜日に採燈大護摩供が行われています
また、宝満山開創1350年を記念して平成25年に、明治以降、途絶えていた英彦山への峰入りも再興したそうです
案内板でもわかるように、
筑前・筑後 全方向見渡せます
この日は前日台風が過ぎていった後の台風一過
左側に能古島
中央に志賀島と海の中道
市内一望 遠くまで見渡せます~
油山・背振方面
四王寺山
大城山(おおきやま・大野山とも)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山からなり、それぞれを別個の山として、一帯の山地の総称として四王寺山脈・四王寺山地と呼ばれる場合もあるそうです ~ウィキペディアより~
古代山城でもあり、上からみると地形がよくわかります
稜線に雲の影
三郡山、若杉山方面
上宮の横から舞台石の方へ上ると
宝満山上宮碑
岩々の間からの景色
大根地山の三角が見えます
筑後平野、朝倉・久留米方面
礼拝石
この石の上が、山伏達の「大巡行おおめぐりぎょう」の際の礼拝の場でした。
丑の刻(午前二時)に、最も高いこの場所から、星空に向かっての読経は、山頂から天へ響き渡り、荘厳な儀式であったことでしょう
石の上に皆、登っちゃってるけど
多くの人に親しまれてるお山の神さまのようなので、苦笑いしながらも、許してくださっているのかも
肇祉と彫られています
「祉を肇はじむ」 祉は福。
幸福を開き始めるを意味するそうです
眼下には宝満山楞伽院山荘(キャンプセンター)
キャンプセンターは、元禄時代から明治維新まで当山の山伏の中心であった楞伽院(りょうがいん)の跡地に立っています
楞伽院 ~筑前名所図会(奥村玉蘭)より~
上宮の下の広い敷地の立派な建物だったことが描かれています
十六詣り
~以下宝満山弘有会ホームページから抜粋~
”「十六詣り」は、16歳になった男女が4月16日(または8日)に宝満山に登り、上宮でお祓いを受け、男は一生金銭に困らないように、女は良縁を得ますようにと祈った行事でしたが、 戦後、成人年齢が20歳になった事、村の組織の崩壊などによって次第に行われなくなりました。
十六詣りで上宮に参拝すると、オミクジを引き、その中に入れられた金玉1個、銀玉2個を引き当てると「幸運を得る」などともいわれました。 また稚児落としの断崖の岩間の木に「縁結びのコヨリ」を結びつけると願いが叶うともいわれました。
太宰府の桜町区で聞いたお話では、
「半世紀前頃まで旧暦4月8日、16歳の者が連れだって宝満詣りをした。
女は、新しい久留米の紅絣の短着に赤い腰巻き、黒の手甲・脚絆に紅白のアトガケのついた竹皮の草履をはき、新しい手ぬぐいを被ったおそろいの装束で登った。
上宮にお参りした帰りには、シャクナゲの枝に糸のついた丸いオコシを下げたものをいくつも持って帰り、宝満詣りの祝をくれた親戚に配った。
女の子達は、この時着た着物をそのまま洗濯せずにとっておいて、田植えの時にそれを着て早乙女になった。
男の子は8日・9日と二晩続く若者組の春籠りに、酒一升・肴一鉢を持参、親が付き添って組み入り(大人の仲間入り)を、女も招かれて加勢をしながら二日間を楽しんだ」ということです。”
平成25年からこの行事は復興され、毎年事前予約で参加できるようです。
(宝満山弘有会ホームページより)
上宮付近には、たくさんの蝶々が飛び回っていました
アゲハ蝶、モンシロチョウ、キチョウに、この蝶々 動きが早くて中々撮れませんでした
上宮から少し下りたところに
凄く見晴らしの良さそうな場所
この不思議なマークは何だろう
山 と 十 ?
座るにはちょうどイイ感じ
綺麗な木肌~、何の木かな?
また、ツリフネソウ
チャウロコタケ(茶鱗茸)
ベンチの横に救急箱が設置
ありがたいですね
木漏れ日に透けた葉っぱ
交差する二本の倒木が門みたい
とっても気持ちいいです~
足元に小指よりちっちゃなトカゲ
カナヘビのおチビさん
写真撮らせて~📷って言ったら、しばらくじっとしてカメラ目線くれました
ついに、一合目まで下りてきました~
ほぼ15時です
じっくり山を堪能させて頂きました
斜め上にある歌碑
~筑紫へまかりける時に かまと山のふもとに宿とりて侍けるに 道へらに侍ける木にふるく 書きつけて侍ける
春はもえ秋はこかるるかまと山
とありけるを、 又書きつける
霞もきりもけふりとそみる ~
『拾遺和歌集』に収められている
清少納言の父『清原元輔』の歌
元輔は三十六歌仙の一人、79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、83歳で任地で死去。
肥後に赴任の際に、竈門山の麓の宿に泊まり道端で見つけた古い木片に書きつけてあった上の句を詠んで、下の句を合わせて詠んだと書かれています
たくさんある宝満山を詠った歌の中でも、最も表現に優れた歌として有名だそうです
休業中のお蕎麦屋さんの前にいたワンちゃん
笑ってるみたいな顔
穏やかでフレンドリーなワンちゃんでした
今回の参考にさせて頂いた文献
大変お世話になりました
まだまだ見どころたくさん
魅力満載の宝満山
九州でも人気の山って、よくわかりました
何度でも行きたくなります
今度は別ルートを巡ってみたいと思います
詰め込み過ぎと思いつつ
長くなりすぎて、すみません
最後までお付き合い頂いて感謝です
本当にありがとうございました
次回は、文中でも少し案内していた
博多冷泉町の『寶照院』をご案内します