今回のお題は
九州国立博物館と
3/21まで開催されている
「最澄と天台宗のすべて」
のはずだったのですが、
思いのほか博物館へ辿り着く前までが
長くなってしまったので
今回は、博物館の入口までになります
すみません
博物館まで 太宰府駅から徒歩15分
天満宮参道と並行した静かな道です
駅の右手改札から出て
突き当ると
『国博通り』(浦町通り)
真っ直ぐ進むと交差点
左角の公園は
斎藤秋圃旧宅跡
江戸時代の秋月藩御用絵師だった斎藤秋圃(1768~1859)が、隠居後に住んでいたところといわれ、太宰府の賑わいを描いた博多太宰府屏風などの多くの作品を残しています。邸宅は20M先に移築され、現在も個人宅として住んでいらっしゃる方がおられるようです。
国博通り(浦町通り)を進みます
昔はこんな感じだったんですね~
筑紫女学園和敬寮を通り過ぎたお隣
藍染川に架かる石橋の袂の猿田彦大神の石碑
藍染川と梅壺侍従蘇生碑
この藍染川は平安時代の「伊勢物語」など多くの和歌に詠まれ、謡曲「藍染川」の舞台に
なったところで、次のような恋愛悲話が残っています。
「むかし、天満宮の社人、中務頼澄が京に上がった時、梅壺という天皇のお傍近くにつかえる女性と恋仲になり、梅千代という男の子が生まれました。 やがて、頼澄は筑紫へ戻ってしまいました。 月日が経って、梅壺は成長した我が子を父に逢わせようと太宰府まで来ましたが、頼澄の妻は、夫に会わせまいと梅壺母子を追い返そうとしました。 悲嘆した梅壺は、藍染川に身を投げて死んでしまいます。 それを知った頼澄が梅壺の蘇生を天神様に祈ったところ梅壺は生き返りましたという物語です。 ~案内板より~
伝衣塔
鎌倉時代のこと、太宰府横岳の崇福寺(現在は博多区千代)にいた
聖一国師(円爾・博多承天寺、京都東福寺開山した臨済宗の僧、博多山笠の生みの親)の夢枕に
菅神(菅原道真公)が現れ禅の教えを問うた。
そこで国師が宋(中国)の仏鑑禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋へ渡り、忽ちに悟りを開いて戻ってこられたという。 渡宋天神の話であるが、悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子である鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる。 ~案内板より~
渡唐天神像 狩野元信筆 室町時代
渡唐天神像 仙厓筆 江戸時代
やっぱり仙厓さんの画、たまらん~
*いずれも太宰府天満宮宝物館・常設展示で観られます*
この下に衣が納められているのでしょうか?
お隣のお堂の屋根が破損、今にも崩れそうだったのですが、
去年、お堂の補修工事がされて
立派になっていました
雨漏りや崩れる心配がなくなってホントに良かったのですが
お堂の前にあった風情のある建物の礎石?や苔
綺麗になくなっていたのが、名残惜しかったです
裏の岩山に何か感じてるのか
とても惹かれるものを感じて、
太宰府さんに来たときは
必ずここにもお参りしています
通りに戻ると、宝満山が綺麗に見えます~
更にお隣は
光明禅寺
先ほどの伝衣塔を建立した鉄牛円心が文永10年(1273)に開山した
臨済宗東福寺派寺院。 江戸時代には太宰府天満宮に仕える人々とその家族の菩提寺として、元和2年(1616)に再興されて、安政3年(1856)7月再営された天満宮の結縁寺です
~ウィキペディア参照~
一滴海之庭
本堂の表裏にある庭園は、昭和32年(1957)、作庭家・重盛美玲氏によるもの
表庭は、七五三式の十五石を並べ、
光明寺の『光』という文字を抽象的に表現した仏光石庭
本庭は、本堂や茶室から鑑賞する座観式の庭園で、渡宋天神伝説に基づき
白砂と青苔、多数の石組による岩島で『大海』が表現され
大海も一滴💧が集まって成るという一滴海庭
県指定名勝 枯山水庭園で、移り変わる四季を楽しめる紅葉でも有名なお寺でした
最後に訪問したのはもう、6、7年前でしょうか~
数年前から、紅葉シーズンを含め閉鎖されていることが多く、
一部の観光客のマナーの悪さが原因のようでした
たま~に、開いていることがあるようです
そんなチャンスに巡り合えますように
門を守る狛犬さん
下り藤に三引きの紋
お寺の前の猿田彦神
前を流れる藍染川
更に川沿いを奥へ進みます
太宰府🌸梅柄マンホール
九博の屋根が見えてきました
リフトもあります
階段を上ると
到着~
上の白い道を 歩いてきました
エントランスのガラスの白龍さんが迎えてくれます
到着まで長くなってしまったので
博物館編は次回に!
最後まで読んで頂いてありがとうございました