差別を許さない、人を侮蔑するは誰だ  -7ページ目

差別を許さない、人を侮蔑するは誰だ 

一人一人の人間を大切に 憲法の第一義
人を見下し、侮蔑する差別者
偏狭なる心が 恐怖と差別を生み 暴力をなす
戦争をする国へ、復古、新自由主義に NO !
戦争は 人を差別する心から生まれる

 仏教は  命の尊重から 平等、慈愛、

現代の自由、平等、博愛 へ発展しました。


 天上天下唯我独尊   に秘蔵された思想


          大宇宙の中で、

我を一人称で   自分は尊い存在 

我を二人称で   貴方は尊い存在

両者の合算で   生きるもの総てが尊い、自由、平等、博愛


命の尊厳、自由、平等は

 平和主義、民主主義として、世界の常識、基準グローバル

スタンダードとなりました。 

 自然界の共生の原理は弱肉強食と共存です。しかし、人類

の共生、共存の思想は平和です。反戦、非戦です。20世紀

の余りにも度重なる悲惨な戦争は国連憲章で平和条項持ち、

アメリカ以外の世界の主要各国では日本だけで無く平和条項

を憲法に掲げています。イギリスは成文憲法がない特例です。


私達は一切の専制、独裁の支配を拒否します。声を出せな

い人の声を聞ける人でありたい。弱者を省みない正義は偽り

であり、虚飾です。偏狭なる正義は偏狭なる自己愛によって

生じ、偏見と差別を産み、増幅させます。


 西条八十 かなりや youtuve 井上淳子 作曲成田為三

歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 ・・・・・

歌を忘れたカナリヤは 象牙の舟に銀の櫂(かい)

 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す


 生身の人間は弱く、傷つきやすく、心も痛み易い。多くの人

が人間関係の中でコンプレックスを持ち、自信を持てないで

います。生きる上での不安、恐怖から宗教が発展したと言え

ます。

 自らの自信、誇りを確保するが為に、他を卑下することは

自己中心的な弱者の思想です。残念ながら多くの思想、宗教

家が宗主第一、他を排除する簡単な方法で自己の正当性を

確立しようとします。

 他者を思いやれる強者の思想こそが自然界の弱肉強食の

共生を克服し、人類の平安と平和、共生が可能です。


 非暴力で知られるガンジーは非暴力こそが最強の力としま

した。怒りは相手の怒りを目覚めさせます。憎しみは憎しみに、

愛は愛を呼び起こすと、敵を愛で征服せよ!

 非暴力の戦いが自他を対立を乗り越え、融和可能な最善の

方法であると。

 イエスは自らの宣教に当たっては徹底した非戦でした。神の

愛を説き、命を投げ出すことで証明しようとしました。右の頬を

打たれたら左の頬を差し出しなさい。

 自己防衛を否定するような福音書の教えですが、ローマ帝国

で国教化されると、罪はキリストによって贖罪された、懺悔しな

さいと。二重構造で均衡させています。


 日本の文化は明治まで永らく中国の知識、精神によって培

われてきました。仏教や儒教、老荘など諸子百家から朱子学、

陽明学など、近代日本、明治維新の精神性の高さはその学習

の賜です。

 漢文の素養は戦前まで必須でした。儒教は日本では宗教に

はなりませんでしたが、日本人の中に深くしみ込んでいます。

明日は中国語で明天、明は訓読みで明るい、呉音ではミョウ、

漢音ではメイ、唐音ではミンです。儒教の死生観は招魂再生

であるらしい、子孫が先祖を祀る儀式によって再生すると。

先祖を敬う孝が重視され、孝悌は仁を為す本とした。江戸時代

には孝よりも忠を第一とする朱子学が採用され、宗教性の無い

封建思想、家父長制として定着しました。中国人のリアリティー

は儒教の招魂再生にあるとも言えます。

 徳による王道で天下を治めるとした孔子の後、墨子は一切の

差別が無い博愛主義と非戦主義を唱えました。


 当ホームページでは

      いとし君 わがある限り とわにあり

          君ある限り 我も亦ある

を反戦平和の重要な第一の柱と考えています。

儒教の招魂再生に通じる考えです。親を想い、妻子を想う。

私がある限り愛する人は私の中にあり、汎用拡大して、

世界のいとしい人々がある限り 私はある。

 もっとも、天上天下唯我独尊 を自己中心の権化のように曲解

されるように、一行目をストーカーに曲解される可能性もありま

す。しかし、私は知っています。極悪人と言われる人が我が子を

可愛がることを。二行目はそう簡単ではありません。

 君ある限り  我も亦ある 愛する他人を信頼できますか?

愛されている信念、自信ありますか?

 互いの存在を認め合う優しさを培う、すぐに手を出さない自制

心、寛容の心を養うことで自由、平等、愛の実現は可能です。

日々生まれ、暴虐をつくす生存競争との日々の戦いです。


 第二の柱は    頼もしい人間であれ

        たくましく やさしさありて たのもしい


 第三の柱は 人類の共生は、自然界の共生である生存競争では無い。

       第二の反語です。

 

 戦前の日本、大日本帝国を破滅に追いやった国賊は敗戦後に自由、民主主義の日本国の英雄か?

 日本人はどうしてこんなにバカになったんだろう。なんとくだらない戦争をする。一体こういうバカなことをやる国というのは何だろう?

 敗戦の想い司馬遼太郎。22才の私への手紙が歴史小説を執筆する契機 (NHK Eテレ 日本人は何をめざしてきたのか )


 終戦近く、首都防衛の栃木の戦車部隊に配属された司馬氏は北へ避難する住民と出撃する戦車隊が交錯する時、上官に避難民は轢けの一言に衝撃を受ける。国を守る為に命を賭けることで軍人はえらそうにしたのに、国民を先に殺して行けとは?


司馬はノモンハン事変を昭和の戦争として小説の取材に10年以上費やした。、生き残ることの出来たわずか3人の連隊長の1人、須見新一郎は取材を受けた後、司馬に決別書を送る。

 国賊、国を滅ぼした大責任者と親しく心を打ち割って話しをされていた、あなたを気持ちの中で許せなくなりました。

 でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、第一線の部隊が思わしい戦いをしないから、この戦いが不結果終わったようなことにして、責任を負って死ねと。各部隊長を自決させたり、処分した。

 自決を拒否して退役させられた須見氏は

 馬鹿者奴 我が作戦の愚昧なること 装備はお話にならない 極めて鈍重なるわが戦車 豆腐の如き存在・・・

 迷夢の酔者達は日本を引きずって、遂に大東亜戦争まで突き進んで終わった。  

 ノモンハン事件は日本ソ連ともに戦死者1万5千以上の戦争の実体は隠蔽され、長らく国境の事件として処理されてきた。司馬は統帥権が昭和の日本を狂わしたと考えた。天皇を神格化し、天皇の軍隊は日本を統帥すると。

  昭和の略歴
 昭和3年  満州国建国

 昭和6年  満洲事変

 昭和12年 日中戦争

 昭和13年 国家総動員法

 昭和14年 ノモンハン事変(対ソ戦争)

 昭和15年 大政翼賛会

 昭和16年 日ソ中立条約(ソ連は対ドイツ、日本は南方に対応)

         太平洋戦争

 昭和20年 ポツダム宣言、無条件降伏の受諾

 戦前の体制をよしとする人々は須見氏が断言する、日本を破滅に追いやった国賊をどう考えているのだろうか?不思議です。戦前への回帰を願うならば、何が良くて、何が悪いのか?明確にすべきです。

 ヘイトな言葉を使うことは自らを貶めます。対立を極だてるのではなく包括することが必要です。

 国賊でも英雄でもないと、ただ辻正信氏は天皇の兵士を無用に死なせた罪で戦前の軍法であれ裁判にかけるべき人でした。何が無謀で、日本の国民、兵隊の命がどれだけ軽んじられたかを明らかにすべきでした。

 日本は民主主義の国である。しかし不完全である。民主主義の国になったからといって民主主義を実施しているとは限らない、戦前の教科書を黒く塗りつぶすことで、民主主義を理解したことにはならない、多くの人は 個人の自由 と略解した。国連で人権侵害の国と名指しされる北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国が正式名称です。何処に民主主義が有るのでしょうか?言葉の意味と実体(文化レベル)には相違があります。
 天皇あっての日本、大日本帝国の国体維持が敗戦処理の主眼であった。昭和18年にはイタリアが降伏し、カイロ宣言、日本も敗色が濃厚になった。そして昭和20年2月ヤルタ会談、5月ドイツ降伏、8月日本降伏

戦争反対に理由は必要ない。感情です、日本の普通の庶民の生活では正当防衛や正義の殺人が許される感情も理性も持ち合わせていない。


   いとし君 わがある限り とわにあり
       君ある限り  我も亦ある


 それは、人と人との絆、関係。そして死生観の世界基準として、ユニバーサルスタンダードにすべき言葉です。

 多くの日本人の無宗教。伝統的な八百万の神々から自然崇拝、地域のお地蔵や氏神さん。或いは、一神教のキリスト教など宗主を第一義におく宗教者であっても理解が可能です。

 個人の意識が希薄であった昔、親が生きた様に生きる。そして子供に同じように伝える。人間の生と死の連続性、死生観を表現しています。万葉の時代より受けつがれた日本の美意識です。

 宗教やイデオロギーの対立から他者を排除するのではなく、人と人の絆の原理として、寛容と博愛の原理とすることが可能です。

 いとし君を特定の親や子、配偶者とするか、広く汎用して地域、国、世界に広げ、或いは神をいとし君とし、宗主をいとし君とする宗教者。或いは有名人や心の恋人を永遠のいとし君とするかは本人の自由です。

 しかし、始めに いとし君 わがある限り とわにあり

があって、主体は自分個人です。

 そして、 君ある限り  我も亦ある で自分に帰納して完成します。


 戦前の大日本帝国では現人神の一神教、翼賛体制の下、国家総動員で国民を熱狂的な勢いで大東亜戦争に突入させたことを考えれば、神は神、人は人であり、偉大な宗主で有っても人なりとすべきです。

 余りにも悲惨な戦争を体験した日本人、残された昭和の記憶、遺言は ”戦争をしてはダメ”です。 

 そして、もう一つの昭和の記憶はイデオロギー対決です。米ソ冷戦、Hotな戦争と保革対立、分裂です。イデオロギーの主張に中庸は無く、妥協だけです。対立を包括する必要があります。


 非暴力の思想はイエスの布教の方法でした。残念ながらイエス後のキリスト教では右手に武器と変質していました。仏教は釈迦の根本思想が非暴力、平和、平等です。個人の自由、尊厳を保つ為には必須条件だからです。そして慈悲という愛も必須でした。天上天下唯我独尊は仏教の最短の経典です。参照 偉人 釈迦 人間ブッダ


 今や日本国内、都道府県での戦争が考えられない様に、はるか将来には世界中で戦争が考えられない時代が到来します。日本は軍縮をはじめ平和の理念を世界に普及する使命があり、役割があります。



 民主党は先の選挙での大敗を受けて決めた綱領で

「生活者」「納税者」「消費者」「働く者」の立場に立つ

としています。

 なんと中途半端な立場でしょうか。国民とほぼ同義です。何故、「弱者」の立場の項目が加えられなかったのでしょうか?

 民主党の大きな支持母体になっている大手企業の労組、連合のHPを見れば、STOP THE 格差社会 がトップに表示されています。矛盾しています。大手の労組にとっては労使協調によって企業、従業員の生活安定、向上を目指してきました。

 同様に民主党では電力労連を支持母体とした議員は原発稼働に活動し、自動車総連支持の議員は自動車産業に仕える。大企業を中心とした経団連が自民党の大きな支持母体と対になっています。

 弱者を見捨てることが個人の尊厳、権利が侵害されてきた現実。民主党が消費税導入を決めた時、最低賃金のアップを同時に決めるべきでした。格差拡大を推し進めたのは民主党、野田佳彦氏です。

 何が中庸の政治ですか。中庸の立場の政治です。個人に矮小化すれば経営者に迎合し、自らの能力で自分の立場を有利する、立場を超えて影響力を拡大させる。人間性が悪く問われればヨイショ、ゴマすり人間です。日本固有の領土とは何でしょうか?国家成立時の領土?統治権が一番古く確立した?日本人が生活をしていた?北方領土は日本固有の領土と同じ言葉?ナショナリズムに迎合した?

 民主党や連合が格差社会の是正を本気で考えるならば、中庸の立場を捨て、弱者の立場を宣言すべきです。歌を忘れたカナリヤは裏山に捨てない。 ナザレのイエスからキリストを創ったパウロ 参照

 作詞 西條八十、作曲 成田為三
歌を忘れたカナリヤは うしろの山に捨てましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に埋けましょうか
いえいえ、それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀のかい
月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す


 弱者の立場に立つか、立たないか明確にすべきです。現状のままでは2大政党を訴える資格はありません。国民を分断するゴマすり政党でしかありません。野田佳彦氏は誤りに気付くべきです。

 連合はそれに気づいたのか、ポーズだけなのか不明です。


 戦後民主主義を代表すると言う丸山真男氏をNHK戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか dailyMotion で知りました。

 

 抑圧の移譲は心理分析の言葉のようですが、戦前の大日本帝国の国家体制、統治機構の中で国家主義が善とされ、支配、抑圧が順次下部に移転するとした。かなり曖昧な表現でしかない。

 支配と服従の連鎖、上におもね、媚びる分だけ下に強く当たる。それは抑圧によるストレスの発散よりも差別意識の発露です。個人の尊厳を重んじるのでは無く、自分が受け入れた差別構造を実践しているに他ならない。何故自分が受けた待遇と同じ事をしてはいけないのか?と

 抑圧の移譲は日本の天皇制の超国家主義が無責任の体系を生みだし、誰も責任を負わない無責任な体制が主流となり、大政翼賛になったと

 戦後の民主化によっても、民主主義は確立していない。永久革命としての民主主義。民主化の過程である。現在まで移行すれば無責任の移譲が福島原発事故を招いたのではと。


 原発は安全である 世界一の安全対策 言葉だけは安全

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は記者会見で「基準の適合性を審査した。安全だということは申し上げない」と述べ、審査は必ずしも川内原発の安全性を担保したものではないとの認識を明かした。それでも同原発の安全性については「世界最高レベルに近い」 原子力規制委員会は危険性を発表する責任があります。想定していないの何か?

 原発の新規制基準が安全である保証は何処にありますか?フランスや米原子力規制委員会(NRC)のような権限と予算を持っていますか?アメリカでは同時多発テロ以降全電源喪失事故に対応していました。

 福島原発事故対策の経過を見れば原子力規制委員会は権限を持たされていない。審査事務であって安全実務は電力会社に依存しています。それは福島原発事故以前と変わりません。

 無責任の移譲が続く 川内原発