戦争反対に理由は必要ない。感情です、日本の普通の庶民の生活では正当防衛や正義の殺人が許される感情も理性も持ち合わせていない。
いとし君 わがある限り とわにあり
君ある限り 我も亦ある
それは、人と人との絆、関係。そして死生観の世界基準として、ユニバーサルスタンダードにすべき言葉です。
多くの日本人の無宗教。伝統的な八百万の神々から自然崇拝、地域のお地蔵や氏神さん。或いは、一神教のキリスト教など宗主を第一義におく宗教者であっても理解が可能です。
個人の意識が希薄であった昔、親が生きた様に生きる。そして子供に同じように伝える。人間の生と死の連続性、死生観を表現しています。万葉の時代より受けつがれた日本の美意識です。
宗教やイデオロギーの対立から他者を排除するのではなく、人と人の絆の原理として、寛容と博愛の原理とすることが可能です。
いとし君を特定の親や子、配偶者とするか、広く汎用して地域、国、世界に広げ、或いは神をいとし君とし、宗主をいとし君とする宗教者。或いは有名人や心の恋人を永遠のいとし君とするかは本人の自由です。
しかし、始めに いとし君 わがある限り とわにあり
があって、主体は自分個人です。
そして、 君ある限り 我も亦ある で自分に帰納して完成します。
戦前の大日本帝国では現人神の一神教、翼賛体制の下、国家総動員で国民を熱狂的な勢いで大東亜戦争に突入させたことを考えれば、神は神、人は人であり、偉大な宗主で有っても人なりとすべきです。
余りにも悲惨な戦争を体験した日本人、残された昭和の記憶、遺言は ”戦争をしてはダメ”です。
そして、もう一つの昭和の記憶はイデオロギー対決です。米ソ冷戦、Hotな戦争と保革対立、分裂です。イデオロギーの主張に中庸は無く、妥協だけです。対立を包括する必要があります。
非暴力の思想はイエスの布教の方法でした。残念ながらイエス後のキリスト教では右手に武器と変質していました。仏教は釈迦の根本思想が非暴力、平和、平等です。個人の自由、尊厳を保つ為には必須条件だからです。そして慈悲という愛も必須でした。天上天下唯我独尊は仏教の最短の経典です。参照 偉人 釈迦 人間ブッダ
今や日本国内、都道府県での戦争が考えられない様に、はるか将来には世界中で戦争が考えられない時代が到来します。日本は軍縮をはじめ平和の理念を世界に普及する使命があり、役割があります。