26日間の入院でけいれん発作の制御ができました
かいとはてんかん発作がとまらず、10/23~11/15まで入院していました。付き添いが必須だったので、平日は妻、週末は僕が付き添い当番にしました。
10/21にT病院の主治医から電話で、朝のマイスタンを倍にするのと、緊急時のダイアッブは1.5倍にする指示を受けたので、それで様子をみました。
まったくおさまらなかったので、10/23に緊急外来でT病院に診てもらい、入院することになったのです。
入院してからはお薬の調整で、ミダゾラム(ドルミカム)の点滴が始まりました。
週末には発作が数時間おきないなど、割とすぐに効果がでました。
今の飲み薬
・フェノバール
・アレビアチン
・イーケプラ
・マイスタン
・酸化マグネシウム
・ミヤBM
※頓服はダイアッブ
発作のせいで夜寝られないので、寝る前はダイアップを毎日のように使いました。
10/30には脳波検査のためミタゾラムを減量して、10/31にはゼロになりました。入院から8日が経過してのことでした。
当時は、あと1週間以内には退院できるかなと楽観視していましたが、甘かった。ここからなかなか安定しませんでした。
このときには間代発作(けいれんの発作)はほとんど見なくなり、強直発作(力が入る発作)のみに見えました。発作中は意識を失っているようです。発作の頻度は4割減くらい(1時間に30回くらい)になったかなと。
午前中の発作は激減したのですが、午後からは1時間に50回くらいの発作頻度に戻ってしまいました。
主治医からは大きな発作だけ記録すれば良いですよ、記録が大変だからと言われていたのですが、傾向や頻度を把握したかったので、気づいたのはすべて記録していました。
入院2週目からはフェニトイン(アレビアチン)の内服薬を増量することに。発作は減らず毎晩ダイアップを使っている状態でした。
フェニトインはかいとにとって、とても難しいお薬です。鎮静作用は強いが血中濃度のコントロールが難しい。少ないと発作は止まらないし、多すぎると中毒を起こしてしまうのが、何度かありました。
体調によっても血中濃度が変化しやすい印象だったのですが、入院してるしそんなこと考えてる場合じゃないなと。
かいとは、「バイバイ」と発することができるのですが、ある夜3時間以上も「バイバイ」を機械のように一定のリズム(5秒に1回くらい)で連呼していていました。
計算すると2,000回を超えることになりますが、途中発作があったから実質は半分くらいかな。目の焦点も合ってないような気がして、ナースコールしました。
看護師さんもいろいろ掛け合ってくれて、当直の先生に来ていただきました。
するとかいとは大好きな聴診器を見て掴もうとしてバイバイをやめたのです。
心配しすぎて騒ぎにしてしまって病院には申し訳なかったけど、意識的に言っていたことがわかり安心しました。でも3時間以上もバイバイを言い続けるのは体力が必要だっただろうなと親バカ思考のほうが強かったのは反省点です。
さて、3週目は内服薬のフェノバール増量と頓服のダイアッブをワコビタール(エスクレ)に変更です。
ワコビタールは過去使ったことがあるのですが、かいとには効きづらい印象です。主成分がフェノバルビタールで、緩やかに効いてくる印象でした。主治医はフェノバルビタールの血中濃度をあげたかったようです。
一度ワコビタールを使ってからは、フェノバルビタールの血中濃度が適正になったようで、フェニトインも適正になったようでした。
この頃にはあまり食べられなかったゴハンを間食できるようになりました。
昼夕食時に発作が連発するという謎の事態ではあったのですが、それでもモリモリ完食できることが増えてきました。
表情も少しずつ豊かになってきた印象です。
4週目には、完全に安定しないもの、以下の観点で退院準備が進みました。
・昼夕食近辺以外は発作が連発しないこと
・それでも食事がしっかりとれていること
・夜ダイアップを使わなくても寝られること
・すこしずつ元気を取り戻せていること
そして11/15にめでたく退院し、今では入院前と発作頻度は変わらないくらいになりました。
ただ衰えた体力はすぐには戻らず、それまでの活発な動きを取り戻すにはリハビリが必要そうです。
11/18には特別支援学校にも通うようにして、翌週にはデイサービスにも通えるようになりました。
最初はドッと疲れたようで、帰って来てからは寝てる時間が長かったようですが、徐々に活気を取り戻してきました。
これから成長期には血中濃度のバランスがとれずに、入院調整することが数回くらいあるかなと思う今日この頃です。
入院中は迷走神経刺激療法(VNS)の可能性もあるかなと思いましたが、お薬でコントロールできて良かったです。
今回は付き添い必須だったので、平日はママが寝泊まりで、金曜の夜から僕が寝泊まりの担当でした。
文化の日があったり、僕がテレワークできたりしたので、お互いの負担を少し調整できたかなと思いました。
ただ、兄のゆうとには10年前の誕生日に家族全員でお祝いできなかったことを思い出しました。
https://ameblo.jp/tenkan-k/entry-10193575206.html
平日はなるべく定時に帰ってゆうとと一緒にいる時間を作りました。
理解のある会社で良かった!働き方改革!
次回は、大好きなゆうとのことも報告したいと思います。
かかりつけに拒否され、主治医の病院に入院
約1年半の更新ですが、かいとがかわいそうでたまらなくて投稿してしまいました。
強直間代発作で1回あたり10秒から20秒くらいです。感覚は1時間に数回から1分おきなど様々です。
かいとはお座り、ハイハイから膝立ちまでしますが、頻度が高いときは、ハイハイや膝立ちの途中で発作が起きてテーブルに顔をぶつけてけがをするようになりました。
ゴハンのときも発作が起きてほとんど食べられず、フラフラしてお座りもできなくなり、夜中ずっと発作が起きて眠れなくなりました。
実は昨年10月に引っ越しをして、かかりつけ病院がM病院からJ大学病院に変わりました。国立T病院には3カ月に1回通院していましたが、引っ越し先からも通えなくはないので、継続しています。
ダイアッブを使っても発作は止まらず、1時間には100回の発作が数時間続いたので、かかりつけのJ大学病院に夜中3時に電話をしました。それまで2回定期受診していました。
救急では看護師さんに症状を伝えると、119番して他の病院に行くように言われました。こんなことを言われたのはショックで初めてのことでした。
少し違和感があったのは、ダイアッブなどは使いましたか?と聞かれ、使いましたと答えると、誰の指示ですか?と質問されたことです。
それ以外にもたくさんあるのですが、来てもどのくらい待つかわからないとの答えでした。であれば外来の受付開始まで待てばいいですか?た聞くと救急車で他の病院に、との答えでした。
信用できなくなったので、深夜4時にゆうとを自宅に残して、妻と別の救急病院をに行きました。病院前に着くと発作の頻度が5分に1回くらいまで減ったので、自宅に引き返しました。
朝8時まで待って主治医に連絡しました。
主治医は、直接J大学病院と話して治療できるように話してみるので大丈夫だと言ってくださいました。
少し待っていると、主治医から連絡があり、今から来れますか?とのことでした。J大学病院は拒否したようです。
このような経緯で11月8日までの17日間入院していました。今は退院しています。
家族4人で暮らせる幸せを改めて実感しました。
治療の内容や入院中の家族の生活については別に記事を書きます。
ただ、主治医からJ大学病院のかかりつけ医が何を言っていたのかを聞いて驚きました。
他県なら診るが、直接国立T病院に行ける距離ですよね。ウチに来ても発作を止めることくらいしかできないので。
これがかかりつけ医の言い分とのことでした。発作を止めてほしいから連絡したのに。
J大学病院の看護師さんと話してたときの違和感はこういうことだったのだと理解できました。なぜかかりつけを引き受けたのか不思議でなりません。
ちなみにJ大学病院のルールで患者や家族は医師とは直接話せず、看護師としか話せないようです。医師と直接話せるのは診察時のみです。
主治医からの勧めで、かかりつけは総合病院のほうが良いとのこでしたので、他の総合病院を探します。
かいとの近況とゆうとの受験
しばらく更新していませんでしたが、落ち着きましたので、更新します。
かいとは先日2分の1成人式を迎え10歳になりました。
今までずりバイだったのが、ハイハイができるようになりました。スピードは早いものではありませんが、膝をたてて体を支て動けるようになったのは大きな成果だと思っています。
機嫌の悪いときは「痛い!」と連呼するのですが、痛いことは何もしていないので、外で言われるときは焦ることがあります。
お風呂がとても好きで、それまで「痛い!」を連呼していても、お風呂入る?と聞くとキャッキャ言います。
お風呂では体を洗っているときから、バスタブに入ろうと身を乗り出します。バスタブに入ると水面を叩いて遊びます。キャッキャ、キャッキャ毎回楽しそうです。
アメトーークのスペシャルが大好きで、録画を何度見せても笑いながらおとなしく見ています。Eテレのいないいないばあのスペシャルも同じように大好きで、これらを交互に見せています。
かいとは脳梁離断したあと、左脳のMSTを経て半球離断していますので、左利きです。
お食事はお腹がすくとテーブルまでやってきて、つまみ食いをします。特別支援学校やデイサービスでOTのトレーニングのおかげで、スプーン持たせると自分ですくって食べられるようになりました。すべて左手です。
発作は1日数回程度発生しています。
意識があって足が痙攣するもの、意識をなくして全身硬直するもの、いずれも10秒程度です。
足だけの痙攣のときは発作後、「ブブブ(恐らくブルブルブルと言いたい?)」と言います。全身硬直のときは発作後「あー」と言ってニッコリします。
意識をなくしても発作があったことはわかっているようです。
お薬は、ラミクタール、フェノバール、アレビアチン、マイスタン、イーケプラです。
ところで、かいとですが今年中学1年生ですが、本人の希望もあり中学受験しました。
本当は続けていた少年野球をやめたくて、塾に逃れようとしたようですが、僕には逃れる選択肢としては理解できませんでした。それは5年生のGW前のことでした。
それから割りと家族総出でバックアップ(一緒にお勉強)しました。
ママは得意の国語中心、それ以外はパパ。5年生の頃は成績に一喜一憂して、失敗を叱ってしまったこともありました。
成績が悪いから叱るということでは、勉強に興味がわくわけがないことに気づきました。
パパも反省しまして、それからは失敗の対策を打たなかったもの、つまり同じ失敗を繰り返したものをどう改善するかを徹底的に話したつもりです。結果、叱ってしまいましたが。
これは仕事をしてても失敗して叱られることはあります。それまでも悪いことをしたら叱っていた。だから、成績が悪いから叱ることとは似て非なるものかなと思いますが、ゆうとはどう思っているのか。
僕はゆうとと一緒に勉強したのが、楽しくて嬉しくてたまらなかった。勉強ってゆうとと一緒だと楽しいなって思いました。
わからないことはとことん調べて、とにかくその理由を得るのはパパの勉強。それをゆうとに教える。
なぜそんな公式になるのか、その現象の仕組みは、この出来事の原因は、のような。
パパは社会が苦手で、例えば野菜の生産量トップ3なんて全然覚えられなかったのです。そもそもなぜあの野菜なのか、他にももっと野菜あるのに、、、良くわからないけどただの暗記なんてつまらないなと思っていました。しかし、調べてみるとその理由はしっかりありました。
こんなにたくさんのことを知れるのなら、中学高校になっても一緒に勉強していきたいと思いました。
ちなみにゆうとは第一志望の最難関校は不合格でしたが、難関校に合格しました。
第一志望に落ちたゆうとは泣きながら、同じ偏差値の別の学校を受けることを訴えましたが、今の学力だと不合格の確率が高い中で、合格でも不合格でもそこから何を学び、課題とするのか意味を見いだして欲しいことを伝え、以降の受験はあきらめました。
ゆうとはとてもがんばって、かなりの時間を勉強に費やしましたが、それでも勝てなかった相手との違いはいったいなんなのかを考え、改善して成果を出すことが課題です。
ただこの先勉強は一生続きますから、学ぶことを楽しんで欲しい。知らないことを知ることに興味をもって欲しい。知ることの喜びはこの約1年半足らずでわかったのではないかな。
受験はただその時々の自分の学力を相対的に知ることができる機会というだけ。
そんなゆうとは1年前に面積迷路という問題集でまったくパパのスピードに追いつけなかったのに、今一緒に解き直したら暗算のゆうとにまったくスピードが追いつけないパパでした。ただのしょうもない自慢話ですね。
かいととゆうとは一見まったく成長スピードは異なりますが、それぞれの環境で考えられないようなスピードで成長していることを実感している今日この頃です。