#37 感動への希求 ~ 大谷翔平とWBC余波  | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 

先日、『#31  WBC ワールド・ベースボール・クラシック』という身辺雑記を書いた。

何の変哲もない、スポーツ紙の写し書きみたいな内容で、野球に関心のない人にはおからのハンバーグ以上に味気なかったかと思われるが、他者の趣味とは本来そういうものなので御容赦乞う。

 

尤も、私が熱心な野球ファンかと言うと、それは違う。

長嶋・王の時代に草野球に明け暮れた世代だが、思い返すと長嶋茂雄が引退した時には既にサラリーマンになっていた。22歳の私は実社会との深刻な不適合で悪戦苦闘していたせいか、プロ野球も含め殆どの娯楽分野に関心を失くした。従って、1970年代以降に有名になった俳優、タレント、歌手、スポーツ選手、等々については、友人知人が呆れ果てるくらい無知だ。せいぜい名前くらい聞き覚えがある程度で、「○○も知らないのか!」とミイラでも見るような視線を浴びたことも多々ある。

しかし、それはまた別の話として、ここではWBCという商業機構が催したイベントが日本中で巻き起こした熱狂とその余波について語りたい。

 

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「野球は失敗のスポーツ」と言うらしい。

それはそうだと思う。例え草野球でも、一度やってみれば分かる。

あんな小さなボールがとんでもない速さでぶっ飛んで来るのを、長いすり粉木振り回して、人のいない所に打てというわけだから、成功率30%でも好打者と評価される所以だ。これがゴルフやサッカーで、各ショットやパスという基本技の成功率が30%なら、そもそもゲームが成立しない。

この成功の蓋然性の低さが、ある意味野球を退屈なものにし、同時に、極めて稀に「筋書きのないドラマ」を生む。WBC準決勝、対メキシコ戦、追いつ追われつのサヨナラ・ゲームが正しくそれだ。個人的な評価を言わせてもらえば、私の野球観戦歴において間違いなく「ベストゲーム」になった。


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さすがに今日現在(2023.04.07)に至ると、あの熱狂の余波も大分収まり、通常のペナントレースが始まった。私はと言えば、トーナメント全体を通して、大谷翔平は言うに及ばず、他にも新たに吉田正尚、佐々木朗希、ラーズ・ヌ-トバー、村上宗隆、周東佑京、等々の選手の名前と顔を覚えた。

とは言え、自分がこれをきっかけとして、半世紀ぶりにプロ野球のペナントレースを追うだろうかと考えると、恐らくそうはならないだろう。何しろ年寄は余生が短く、時間が貴重すぎる。

 

周知の如く、トーナメント期間とその後の数日間、ネットを含めた各メディアは悉くと言って良いほどWBCを取り上げていた。私は基本的に、メディアが担ぎ上げるバンドワゴンは全て疑ってかかる質の人間だが、この熱狂は本物だと感じた。

スポーツ関係者や若者層はもちろん、日頃野球とは何の係わりもなさそうな市井の老若男女まで、WBC優勝に喝采していた。この準決勝、決勝の時期に行われた岸田首相のウクライナ訪問の速報が見事に吹っ飛んだそうで、私はネットの表現を借りると「コーヒー吹いた」。

 

今回のトーナメントで、私は何に最も感銘を覚えたか?

WBCという一発勝負の国際トーナメントと、その象徴的なプレイヤーとなった大谷翔平と言う青年のドラマチックなサクセス・ストーリーが、広い層の国民の間に巻き起こした強い関心あるいは熱狂の度合いに驚き、心惹かれた。大袈裟でも何でもなく、ここ数十年の日本のおいて、これほど国民の広い層に感動を呼び起こした出来事があっただろうか?

ただの商業イベントに過ぎないものが連日通常ニュースの時間帯に登場し、とんでもない視聴率を叩き出すなどという現象があっただろうか? ---- 大災害、悲劇、惨劇の類以外で。

ニュースでインタビューされた普通の人々の顔には、申し合わせたように自然な満面の笑顔があった。

無論、大きな流れに対しては、常に小さな逆流が生じる。

政治的に敏感な人々からは、右派なら「侍ジャパンを応援しない者は非国民だ!」、左派なら「野球をネタに民族主義を煽るな!」というような論議もあったらしい。

共に愚劣極まりない。

祭は楽しめ。それだけのことだ。

低い成功の蓋然性が保証するフェアネスを根底として、数十人の若者達が世界で技を競い合い、優勝を勝ち取った。これはこの国にとって、久方ぶりの、筋書きのない純粋なフェスティバルであり、逮捕者続出で根腐れした東京オリンピックとは後味の爽やかさで天地の違いが生じた。

敢えて深堀りすれば、長い期間を通して、若者達にこのような喜び・楽しみを与えられたのが単なる野球のトーナメントだけであって、一国の首相の戦地訪問が「コーヒー吹く」となる事象は、紛れもなく悲劇的状況と言えるかも知れない。

しかし今は、それで良いではないか。

人々は純粋に祭を楽しんだ。政治も思想も関係ない純粋な感動を楽しんだ。

だからこそ、野球のルールも知らない多くの人達でさえ自然な明るい笑顔を浮かべたのだ。

この笑顔こそ、人々が長年渇望し希求してきた「善きこと」だ。

真善美の善である。

 

                                                                            (2023.04.07)

 

 

 

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