イスラエル中部編 ~ダビデの町 3~
前回「ダビデの町2」では、ヒゼキヤの水道のところまでご案内いたしました。今回はその続編となります。このヒゼキヤの水道は、今から約2700年前に掘られたとされています。近現代のような動力を用いた工作機械がないどころか、鉄器がやっと普及し始めたような時代の中で、わざわざ岩盤を貫いてこのような水道を作る必要があったのか?国家の一大プロジェクトでなければ、このような事業はできません。その背景は紀元前8世紀末のイスラエルを取り囲む世界の状況が大きく関係しています。列王記にはこういう記述があります。ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。(中略)アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。(列王記下18章13以下)ヒゼキヤ王が治めるユダの町々は、当時の中東一体を支配するアッシリア帝国にことごとく征服され、ついにその大群がエルサレムまで来た、という危機迫る状況でした。それについては、ユダ側でも対策が取られています。ヒゼキヤは、センナケリブが来て、エルサレム攻略を目指しているのを見ると、 将軍や勇士たちと協議し、町の外にある泉の水をせき止めることにした。彼らは王を支持した。 多くの民が集まり、そのすべての泉と、この地を流れる谷川をせき止め、「アッシリアの王が来るとき、豊富な水を得させてはならない」と言った。 王は意欲的に、壊れた城壁を修理し、その上に塔を立て、外側にもう一つの城壁を築いた。ダビデの町のミロを堅固にし、多くの投げ槍と盾を作った。(中略)上の方にあるギホンの湧き水をせき止め、ダビデの町の西側に向かって流れ下るようにしたのも、このヒゼキヤであった。ヒゼキヤはそのすべての事業を成し遂げた。(歴代誌下32章)「ダビデの町2」でご案内したように、ヒゼキヤ王よりも数百年前、カナン時代に掘られたトンネルがすでにありましたが、主に谷間の畑や果樹園を潤す灌漑用に利用されていたので、所々に穴が開けられて外に水が出るようになっていました。しかし戦争時にはそれが敵を利することになるため、それとは別ルートの流れを作りたかった、ということでしょう。それにしても大工事です。全長約533mとされ、高低差は30cmという精巧な土木技術です。そして驚くことに、1880年その工事の様子を記した碑文が、このヒゼキヤのトンネル内から見つかっています。「…これがその工事の記録である。掘削者たちがまだ互いに向かって掘っており、残り三キュビト(1.5m)のところまで来た時、岩の中のずれのために、仲間の呼ぶ声が聞こえた。そして掘り抜きの日、つるはしがつるはしに向かって打ち合わされ、水は水源から池へ、二千四百キュビトにわたって流れた。掘削者たちの頭上の岩の高さは百キュビトであった。」王や高官の名前はなく、純粋に職人の視点だけで書かれた大変珍しい碑文で、掘るときの様子が生き生きと記されています。それだけ大工事を成し遂げた、という喜びがこの碑文を掘らせたのでしょう。また、古代ヘブライ語で書かれた貴重な文献でもあります。現在はイスタンブール考古学博物館に保管されています。このトンネルは以下のように蛇行しながら流れています。この行き着く先が、有名なシロアムの池になりますが、その前にちょっと脇道にそれて、ダビデの町の中から発掘された墓地に目を向けてみたいと思います。ダビデ王は亡くなったあと「ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた。」とあり、ソロモン王は「ソロモンは先祖と共に眠りにつき、父ダビデの町に葬られ」と記されています。また、その後に続く歴代のユダ国の王は「先祖たちと共に眠った」とあり、ダビデの町の中に葬られていました。現在「ダビデの町」とされる地区の南の方には、墓地と思われるところがありますが、中でも目を引くのが下の墓で、かまぼこ状に二つ並んで掘られた非常に大きなトンネル状の墓です。1913年、フランスの考古学者レイモン・ヴェイユにより発掘され、ダビデ王家、またはユダの王の墓ではないかと提唱されましたが、現在はその意見に懐疑的な学者が多いようです。さて、ヒゼキヤの水道に話を戻しますと、トンネルをずーっと歩いてくると、急に明るくなって以下の写真の場所に出てきます。ヒゼキヤの水道の終着点となる「シロアムの池」は長らく、ここと考えられてきました。実はここは5世紀半ばに建てられた、ビザンチン時代の大きな教会内の一部が残ったものでした。2004-2005年に、この池の南東側の土地が発掘され、そこから第二神殿時代に利用されていた大規模な長方形の階段付きプールが見つかりました。そしてここが本来のシロアムの池であることが分かりました。まだすべてが発掘されてはいませんが、ヒゼキヤの水道から流れてくる大量の水を貯めて、ミクヴェ(宗教的な清めのための水槽)として利用されていたようです。東西65-70m、南北は50m以上あるとされ、やや台形の少なくとも3方向に階段が付いた水槽です。面積は推定で3,000~3,500㎡と考えられますが、当時の通常のシナゴーグ付属のミクヴェが10-20㎡であることを考えると、桁違いに大きい公共の施設でした。しかもここを起点として、神殿まで上る約600mの巡礼路が整備されていたことも分かりました。過越の祭、七週の祭、仮庵の祭などの3大巡礼の時になると、エルサレムの人口は2倍にも3倍にもなったと言われます。一度に数百人は入れそうなこのシロアムの池で身を清めて、神殿に向かって巡礼の道を登っていく人々の賑わいが想像できるようです。今はすべて地下の中ですが、発掘から整備が進んで、嘆きの壁近くまで「巡礼の道」を上っていくことが出来るようになりました。当時は、こんな感じだったようです。イエス様の時代には、この道を逆向きに下ってきた人のことが記されています。さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(中略) こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(ヨハネによる福音書9章)8章の最後には「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」とあるので、神殿境内から出たところ、神殿近くのある場所でこの目の見えない人に会ったのでしょう。神殿に詣でる人に、お金を恵んでもらっていたのかもしれません。時期はたぶん仮庵の祭が終わった直後のようですが、まだまだたくさんの巡礼者が残っている時期。この盲人は目に泥を塗られたまま、神殿に向かう巡礼者と逆向きに巡礼の道を下り、シロアムの池へ行き目を洗いました。ここ数年の間に池の全貌も姿を現すようになると言われ、巡礼の道はすでに通ることができるようになりました。私もまだこの道は通ったことがありませんので、機会があればぜひご一緒にこの道を上ってみたいものです。皆さまもいかがでしょうか?