今回は筆者の友人であり、現在イスラエルのヘブライ大学聖書学科とユダヤ民族史学科で聖書を学ぶM.Mさんにインタビューを行いました。

 

●なぜイスラエルに留学しようと思ったんですか?
8年前にイスラエルの聖地旅行に参加し、その中でイスラエルの方々のオープンな人柄や自国への愛情を感じました。3月に行った旅行で、その最中に日本の大学に合格したことが分かりましたが、心はすでにイスラエルの留学にありました。そして日本に帰ってからもイスラエルへの熱は冷めず、その2年後にはイスラエルに来ていました。
 
●ヘブライ大学ではユダヤ民族史や聖書を学んでいるとお聞きしましたが、大学に入ろうと思ったきっかけは何ですか?
キブツで里親をしていただいたご家庭のお子さんが、学校で習ったイスラエルの歴史を両親に熱く語っていました。それに対して両親も、「それは間違っている!」と訂正を入れながらイスラエルの歴史を熱烈に語っていました。その様子は親子喧嘩をしているように見えましたが、ここまで熱く語り合えるユダヤの歴史の魅力は何なんだろうか?と疑問に思ったのがきっかけでした。
 
(写真:ヘブライ大学の野外劇場からの景色/背後はユダの荒野)
 
●聖書学科の授業ではどんなことをされてますか?
聖書学科の授業では旧約聖書のみを使います。今は電子版の聖書も多くありますが、授業の中では実際に聖書を手に取って学ぶことが重要視されています。周りの生徒はほとんど、聖書を暗記しているような方なので、とてもレベルが高いですね。(笑)
印象に残っている授業は、イスラエル博物館に訪問して死海文書の修復作業現場を実際に見られたことです。現在も修復作業は続いています。作業は羊皮紙の現物をピンセットで繋げ合わせていく根気のいる作業で、私も体験もさせていただきました。
 
●イスラエルで聖書を読んでみていかがでしたか?

日本では聖書をあまり読んでいませんでした。

イスラエルに留学して安息日を守っている人に触れてみると、聖書が過去のものでなく現代に生きているものだと思いました。イスラエルの人々にとって、この地は神様から与えられたもの、という考えが理解できるようになりました。

また、聖書の教えと現代の最先端の文化が混じり合っているイスラエルは、非常にユニークで面白い社会だと実感しています。

イスラエルでは聖書に出てくる名前が街の至る所に見つかります。聖書の舞台が街を歩いているだけで出てくるので、聖書の歴史がリンクして面白いです。

 
(写真:イスラエルの友人宅にて、左から2番目がM.Mさん)
 
●イスラエルに留学して、イメージが変わりましたか?
イスラエルの方々は気さくな方が多いですね。バスに乗ってると隣の方が話しかけてくれて仲良くなったりします。また、困っている人を見ると助けてくれます。授業中に分からないところがあり困っていると、すぐ助けてくれます。そういった意味では、イスラエルに来て人に頼ることを覚えました。
 
●今後の抱負
日本には今もイスラエルは危ない国というイメージがあります。それは正しい情報が発信できてないからです。日本に帰ってからは、イスラエルの正しい情報を伝えていきたいです。また、ユダヤの研究を進めていけたらと考えてます。
 
(写真:荒野での写真)
 
本日はお忙しい中インタビューにご協力いただき、誠にありがとうございました!
日本とイスラエルの架け橋としてこれからも頑張ってください!
 

ギリシャ北部には使徒言行録(使徒行伝)にたった一行、名前だけ記された箇所がいくつかありますが、今回はその史跡をテサロニキとともに紹介いたします。


アムピポリス

アムピポリスはピリピとテサロニキを結ぶ交通の要衝して、ローマ帝国マケドニア地方の首府として栄えていました。使徒言行録には「アムピポリスを通って」(使徒17章1節)とたった一行にしか記されていませんが、ピリピからは約50kmの距離ですので、おそらくパウロたちもここで宿泊したことでしょう。

現在は紀元前4世紀ごろの戦勝記念碑として建てられたライオン像のみがあるだけです。現在の像は復元されているので当時もこのような形で立っていたか分かりませんが、実際に見るとかなり大きなライオン像でした。

(写真:アムピポリスのライオン像)


アポロニア

アポロニアもアムピポリスと同様に聖書には「一行は通って」とひとことくらいしか出てきません。普通のツアーでは訪れないようなマイナーの場所を訪れるのも弊社ツアーならではですが、そのためかギリシャ人のバスドライバーでさえもアポロニアへたどり着くためにかなり苦労していました。近くの地元住民に何度も聞きながら、やっとそれらしき場所に辿りつくというくらいでした。そのアポロニアにはパウロが来たことを記念した小さなお堂が建てられていて、また高台があり、そこでパウロが語ったとされています。周りには何もない静かな雰囲気が印象的でした。

アポロニアからテサロニキまでは約60kmありますので、ひと休みしながら旅路を歩いたのでしょうか。

 

(写真:アポロニアの高台)

 

 

テサロニキ

テサロニキはパウロの時代、ギリシャ北部のマケドニア地方第一の都市でした。

今でも町の中心部には当時の繁栄を垣間見られる古代アゴラ跡があります。今は公園のようにしか見えませんが、当時は何百何千人という人がこの中に集まり商売をしたり、政治の議論をした場所。パウロも天幕作りをしていたので、ここに来て売り買いしていたかもと想像してみると楽しくなりますね。

その他にも、後にローマ皇帝となるガレリウスが建てた凱旋門など、多くの史跡を見ることができます。

 

(写真:テサロニキの古代アゴラ)
(写真:小劇場跡)

 

テサロニキはアテネに次ぐギリシャ第二の都市です。

ギリシャには何度も訪れましたが、最初に訪れた時のことは、とても印象深く覚えています。

私が初めてギリシャを訪れたのは、もう20年以上も前の1997年1月のことでした。当時アテネに住んでいた友人をイスラエルから訪ねたのですが、その友人が聖書にゆかりのある場所を案内してくれました。以前ご紹介したカバラやピリピなどもそのときに初めて訪れました。1月の雪が降るような寒い日で、用意していた防寒着が薄かったためか、体をガタガタと震わせながら、旅したことを覚えています。アテネからテサロニキへの移動は全て公共の交通機関。列車やバスなどを乗り継いで移動しました。その手配は全て友人に任せていたので、すっかり安心していたら、予定していた寝台列車の切符は実は予約されておらず、結局乗車できたのは普通車両。しかも暖房が効かない車両…。窓の隙間から入る風が冷たすぎて、寒さのため眠れなかったという経験をしました。

 

そんな珍道中でしたが、アテネからテサロニキへ着くと、先ず町の大きさにビックリしたのと、2000年前にパウロがこの町に住むユダヤ人に対して「3つの安息日にわたり」伝道していた姿を思い、アゴラ跡で寒い中でも心を燃やして聖書を読んだことを思い出します。

 

テサロニキで忘れてならないのは、世界史にも登場する人物アレキサンダー大王(アレキサンドロス)です。

アレキサンダー大王の部下カサンダー将軍によって町が建設され、妹のテサロニケイアから町の名前が付けられました。

今でも海岸近くの公園には、アレキサンダー大王の騎馬像があり、町を守っているかのように立っています。

 

 (写真:アレキサンダー大王の騎馬像)

 

コロナの影響でまだまだ海外への旅行は難しいですが、ギリシャも所属しているEUが海外渡航の受け入れを開始するというニュースが飛び込んできました。その受け入れの国の中には日本も含まれています。


今の状況が落ち着いたら、ぜひギリシャのマイナーな聖書の舞台を訪れて、パウロの足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。
 
 

今回はパウロの出身地、タルソスをご案内いたします。

 

前回のシリアのアンティオキアもそうでしたが、一般のトルコツアーでは訪れることの少ない街の一つです。

 

この街は、ローマ帝国時代のキリキヤ州の州都として栄え、学府も置かれ、アテネ、アレキサンドリヤに次ぐ学問の街でもありました。

紀元前41年タルソスにやってきたローマの将軍アントニウスは、エジプトの女王クレオパトラを呼び、この街で会い、恋に落ちました。
ローマ時代の城壁の門が残っていますが、クレオパトラがこの門を通って、街に入ったので「クレオパトラの門」と呼ばれています。



タルソスはパウロの出身地として使徒言行録(使徒行伝・使徒の働きなど)21:39~22:3に、パウロ自身の言葉で「わたしはタルソス生まれのユダヤ人」と言明しています。

ここを案内するときは、「パウロはこの街の出身でしたし、ダマスコ途上でキリストと出会い大回心した後、この街に戻って10年の間、この門を通って何度も出入りしたはずですので『パウロの門』とも呼ばれています。」と、始めることにしています。

この「パウロの門」から1km少しのところにパウロの井戸と呼ばれる遺跡があります。

タルソスで唯一のパウロにゆかりのある場所です。

伝承によると、ここがパウロの生家だと言われています。1990年代まではこの井戸だけが住宅地の中にポツンとあるだけでしたが、井戸の周辺を発掘したところ、ローマ時代の住居の跡も見つかり、今では遺跡として整備されました。

この井戸の水を使った産湯に浸かったんでしょうか?

 

パウロの井戸のすぐ近くに、ローマ時代の街道が見つかっています。

スーパーを作るために整地しようと掘ったところ、古代の道が見つかってしまい、スーパー建設の予定地が変わってしまったそうですが、さすが、トルコ! 掘れば遺跡が出てきます。

街道沿いには商店が並んでいたそうで、街の中心地だったことが伺えます。

パウロの井戸からほど近い場所ですので、幼少期だけでなく成長してからも、パウロもこの道を何度となく歩いたことでしょう。

 

タルソスの近郊にはキュドノス川が流れていて、落差はそうでもないですが、豊富な水量と幅の広い滝があります。

ここを訪れると、たくさんの子供たちが来ていて、夏の暑い日などは飛び込んだり、泳いだりしています。

トルコの子供たちはとても人懐こく、かわいいです。

こんな少年たちを見ていたら、パウロも少年のころ、こんな人懐っこかったのかなぁ、と想像しちゃいますね。

 

 

パウロには「沈黙の10年間」と言われる時間があります。

 

ダマスコ途上での大回心の後、3年間はダマスコで過ごし(ガラテヤ書1~2章)、エルサレムへ上っています。

その後、ユダヤ人に殺されそうになったパウロはカイザリヤからタルソに送り出され(使徒9:30)、次に登場するのは、11章になってからです。

アンティオキアでこの福音が広がっていることがエルサレムに伝わり、バルナバがアンティオキアに遣わされますが、パウロが必要と感じたバルナバは、タルソスに行きます。25~26節にはパウロを「捜しに・・・見つけ出す」とありますが、バルナバがタルソスでサウロのことを人に訊ねながら探し出さなければいけないほど、隠れた生活をしていたのかもしれませんね。

バルナバによってもう一度見出されたサウロは、このような道を通り、アンティオキアに向かったのでしょうね。


アンティオキアで丸一年の間バルナバと共に過ごしています。

 

回心の後14年が経っての2回目のエルサレム訪問は、バルナバと一緒に行っていることから、アンティオキア滞在の後だったことが分かりますので、エルサレムとアンティオキアの間の10年間はここタルソスで過ごしています。

 

タルソスではどのような生活をしていたのでしょうね。

ユダヤ人として、エルサレムで高名なラビ(ユダヤ教教師)に学び、パリサイ派ユダヤ人として

成長するはずが、十字架にかけられて処刑された人間の弟子として、故郷に帰ってきたわけですので、肩身の狭い思いをしながら生きていたのかもしれないですね。

けれども、パウロはフィリピの信徒への手紙3章の中で、自らの生い立ちを語りながら、学んできたものはキリストのゆえに役に立たないものと変わったと、語っています。

 

タルソスを訪れて、パウロの幼少期に触れると、もっとパウロのことが身近に感じられるようになりますよ。ご一緒にいかがでしょう!

イスラエルの南半分はいわゆる沙漠地帯で、豊かな水に恵まれている日本人には、どうしても「沙漠」を肌感覚で感じにくい部分があります。

今は「漠」と書くことが多いからでしょうか、鳥取砂丘のような砂の丘陵が続く場所を思い浮かべる方が多いかと思います。「つーきのーさばくをー♪」と口ずさむ声が聞こえて来そうです。
実際にイスラエルで見る砂漠はゴツゴツとした岩石砂漠で、夏には40℃を軽く超える気温と、年間の降水量が200ミリほど、場所によって100ミリにも満たない非常に過酷な場所です。(ちなみに有名なサハラ砂漠では平均250ミリほど)
 


イスラエルは国土の60%ほどが砂漠地帯と言われますが、衛星写真を見ると、この砂漠地帯は塩性土壌のため白っぽく写っています。降水量の少なさ、暑さ、そして塩性の地質が、植物が増え広がることを阻んでいます。
ヘブライ語の中には、ひとくちに「砂漠」と訳しきれないいくつかの用語があり、また地名とも結びついて、細かく区分されています。主なものでネゲブ、アラバ、ユダ、チン、ファランなどの砂漠名がありますが、中でもネゲブ砂漠は最大の砂漠です。

砂漠は降水量が少ないのですが、雨が降るときには数日間まとまって降ります。砂漠の表面はチョーク質の非常に細かい土壌で覆われているため雨が染み込まず、地表を流れる水となります。また流域面積が広いため、最初は細い流れですが、集まって次第に大きな流れになり、やがては洪水を引き起こしてしまうほど激しい川になります。
普段は乾いて水が流れていない川(ワジ「涸れ川」といいます)が、数時間だけ激しい流れの川に変身します。大した雨じゃない、と思ってワジの下流を走っていた車やトラックが鉄砲水に流された、橋が土砂に押し流されて通れなくなった、というニュースを毎年のように聞きます。私も冬の時期に添乗でイスラエルを訪れた際、何度か死海沿岸でこの洪水に出くわしたことがあります。水の深さを見ながら、バスの運転手さんと「大丈夫だよね」と恐る恐る渡ったことがあります。また一度は橋が流されて不通になり、エリコからエルサレム、ベエルシェバを経由して、死海のホテルに行ったことも…。普段は1時間でいけるところ、3倍かかりました。
 

古の詩篇の作者もこの様子をよく知っており、例えば126篇に、
「主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください」
と謳っています。
この時の「川」は、ゆったりと流れる川ではなく、上のようなすべてをドカーンと押し流してしまうような激しい流れの川を指し、そのように私たちの運命を回復してほしい、と願っているのです。

そのような砂漠には、ナバテヤ人と呼ばれる、交易を生業とする民族が栄えた時期がありました(紀元前3世紀から紀元後2世紀)。彼らはラクダを操り、この地表を流れる水を上手にコントロールする術を知っていました。堰を作り土砂を貯め、そこを畑にして作物を植え、水を蓄えて都市を築きました。その畑には広大なぶどう園もあり、当時の町を発掘すると、必ず大きなワインプレスが見つかります。
 
(アブダット遺跡のワインプレス)
今の荒涼とした砂漠からはちょっと想像のつかないような大規模の町を建て、高度な文明を営みました。彼らが築いた町々には、ヨルダンのペトラ、イスラエルではハルザ、マムシート、アブダット、シブタなどがあり、2005年「香料の道-ネゲブ砂漠都市」として世界遺産に登録されています。弊社のツアーでもネゲブ砂漠まで足を伸ばす際には、アブダットの遺跡を訪れることがありますが、当時の繁栄は、今見える遺跡からは、とても想像つかないと言われます。

聖書に登場する人物もしばしばこの砂漠を舞台に、重要な信仰の転換点を通っています。
アブラハムはベエルシェバで永遠の神、主の名を呼び、モーセは荒野の奥に入り、神の山ホレブで十戒を授けられます。サウルやアブサロムに追われたダビデはユダの荒野をさまよい、多くの詩篇を残しました。また預言者エリヤは、ベエルシェバからさらに四十日四十夜歩いて神の山ホレブに至り、静かな細い神の声を聞きました。
新約聖書の中では、イエス様も荒野に導かれ、四十日四十夜断食をされたのち悪魔に試みられました。パウロもダマスコ途上の回心後、アラビア(ペトラかパルミラと言われる)でしばらくの時を過ごしました。
荒野に人の声は響かず、文明の恩恵は届かず、おのずから神と対座する場所となったのでしょう。このような先人の姿を知っているからでしょうか、イスラエル人の中には、喧噪とした都市を避けて、荒野に点在する小さな集落に移住してくる人もいます。

日本人には「荒野」はまだまだ未知、未体験の世界。一度ゆっくりと時間をとって砂漠で何もしない時を過ごしてみるのも良いかもしれません。
 

今回は筆者の友人であり、現在イスラエルのベツァレル大学美術デザイン学院で映像学を学んでいるT.Tさんにインタビューを行いました。
 
●イスラエルに留学しようと思ったきっかけは何ですか?
小さい頃からの夢は映画監督になることで、日本で映像関係の大学に進学しました。最初は普通に大学に通っていましたが、周りの同級生との温度差を感じたり、次第に満足な勉強が出来なくなりました。そんな時、祖父の10周年記念の集まりがありました。そこで久しぶりに祈った時、祖父からイスラエル留学の思いを託されたような感覚になりました。私は「このままではいけない!」と思い、キリスト教の家庭で生まれた私は、以前から興味があった“イスラエル”に留学をしようと決めました。それは祖父の思いや、自分を変えたいという思いが強かったからです。
 
●今はイスラエルでどんなことをしているのですか?
今はエルサレムにあるベツァレル大学で映像学(Screen Based Art)を学んでいます。
 
(写真:T.Tさんが通うベツァレル美術デザイン学院)
 
●べツァレル大学に入ろうと思ったきっかけは何ですか?
イスラエルに留学して最初はヘブライ語を勉強していましたが、徐々に「もっと学びを続けたい!」と思い、そこで自分にとって何が1番ベストな形になるかと考えました。
私の小さい頃からの夢が映画監督であり、聖書の舞台であるイスラエルで、日本人の自分にしか作れない映像があると思いました。そこで映像の学びができるベツァレル大学を選びました。
 
●日本の大学にも通っていたとお聞きしましたが、日本の大学とイスラエル大学の違いは何でしょうか?
日本では、主に講義を受けて技術を教えてもらうといった形式が多かったです。比べてイスラエルでは、お互いの作品に対して生徒同士や先生方と意見をぶつけ合います。良いも悪いも決めつけるのではなく、お互いの作品を磨き上げていくのが一番の違いだと感じます。
 
(写真:野外での撮影現場)
 
●イスラエルに来て驚いたところは?
一人一人の距離が近いことですね。初めて会った人でも友人のように接してくれます。日本とはまた違う人間味をイスラエルの人から感じます。
それと、物価の高さには驚きました(笑)
 
●イスラエルに来て嬉しかったことは?
言葉を超えて自分の生い立ちや、神様の話ができる関係性を友人と築けたことです。日本にいた時とは違い、様々な友人と信仰の話ができるのが嬉しかったです。
あと、映画を勉強してる者として聖地で映画を作れたことが嬉しかったですね。
 
●今後の抱負はありますか?
イスラエルで学んだ経験を生かし、自分の作品を通して映画を見た人の心を動かす、“天に心が向く”そんな映画を作りたいです。
 
(写真:T.Tさん作品がハイファ国際映画祭の学生短編部門で準優勝を受賞)
 
本日はお忙しい中ありがとうございました!
T.Tさんが監督・脚本・編集を手掛けた作品「ガリラヤの漁師」が、ハイファ国際映画祭の学生短編部門で準優勝を受賞しました。クリスチャンである日本人・Tさんにしか撮れない映像だと高い評価を受けたそうです。
映像がYouTubeで公開されてますので、ぜひご覧ください⬇︎
 

短編ドキュメンタリー映画『ガリラヤの漁師』